高津臣吾が松井秀喜に打たれた初本塁打「仕方なく投げた直球だった」

5月14日(火)6時37分 Sportiva

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(31)
【クローザー】ヤクルト・高津臣吾 前編

 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ——。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載の16人目。

 第8回のテーマは「クローザー」。勝負を決する大事な場面に登場し、抑えて当然、打たれれば戦犯扱いという過酷な任務を託された男たち。前回の西武・潮崎哲也に続き、ヤクルト・高津臣吾のインタビューをお届けしよう。


1993年にクローザーとしての地位を確立した高津 photo by Kyodo News

岡林の奮闘をただ見守ることしかできなかった92年シリーズ

——1992年、そして翌1993年の日本シリーズを振り返る連載です。当時のご記憶は、鮮明にありますか?

高津 記憶は鮮明に残っていますね。特に1993年は。それから今に至るまで、とても短かったような気もしますし、ひとつずつ振り返ってみると、とても長い時間が経ったような気もします。

——1993年のシリーズでは優秀選手賞を獲得する大活躍を見せましたが、1992年はシリーズ不出場でした。3勝3敗で迎えた第7戦は神宮球場でご覧になっていたそうですね?

高津 はい。基本的にはクラブハウスでテレビを見ていたんですけど、試合終盤にベンチ裏に移動して見ていました。ただ、ベンチ裏の小窓からグラウンドの様子を伺う感じなので、試合の詳細はよくわからなかったですけどね。

——この第7戦は、同期入団で同い年の岡林洋一投手が孤軍奮闘、鬼気迫るピッチングを見せていました。岡林さんとは東都リーグ時代でも一緒でした。岡林さんは”ライバル”という関係なのでしょうか?

高津 彼は高校時代から有名なピッチャーでしたし、専修大学時代もリーグを代表する存在でしたから、とてもじゃないけど僕が敵う相手ではないと思っていました。大学時代もプロに入ってからも、彼がひとつの基準というか、「岡林がこれぐらいできるのなら、オレもこれぐらいはやろう」という、そんな感じでした。

——1992年のシリーズにおいて、岡林さんは初戦、4戦、7戦に先発。いずれも完投という驚異的なピッチングを披露しました。同級生として、どんな思いを抱いていましたか?

高津 やっぱり悔しかったです。彼がこんなにたくさん投げているのに、僕は投げていない。彼がしんどい思いをしているのに、何も手助けをしてあげられなかった。そういう気持ちが強かったですね。「試合に出たい、投げたい」とずっと思っていましたし、それ以前に「ベンチに入りたい」という思いばかりでした。岡林があそこまでの活躍をしなければ、そこまで強い気持ちにはならなかったかもしれないですけど、同い年の彼が孤軍奮闘している姿を見て、余計にその思いが強くなりました。

——同い年だからこその複雑な感情があったのですね。

高津 そうですね。リーグ優勝を決めた時も、僕は黒潮リーグ(1991年から2000年まで、高知を中心に開催されていた教育リーグ)に参加していて、胴上げに参加できませんでした。そして、日本シリーズではベンチ入りもできなかった。でも、結果的にあの時期に感じた悔しさが、のちに大きな転機となり、翌年の日本シリーズにもつながったんだと思います。

西武・潮崎哲也へのライバル心


現在はヤクルトの二軍監督を務める高津氏 photo by Hasegawa Shoichi

——1993年ペナントレースからは、クローザーとして台頭し始めます。ジャイアンツの松井秀喜選手にプロ初ホームランを喫した5月2日は、同時に高津さんにとって「プロ初セーブ」の日となりました。

高津 この場面は「松井はインコースを打てるのか?」を探る意味と、「僕のストレートが18歳の高卒ルーキーに通用するのか?」を探る意味があったと、あとで聞きました。でも、当時の僕はそんなことは知らなかったので、「ストレートを投げろ」という古田さんのサインに何度も首を横に振ったんですけど、一向にサインが変わらず、仕方なく投げたストレートを打たれました。あの場面は、変化球なら抑えられる自信があったんですけどね(笑)。

——1993年の飛躍の要因として、遅いシンカーを習得したことが大きかったそうですね。

高津 1992年の日本シリーズで、西武の潮﨑(哲也)が投げている球速100キロ台のシンカーを見た野村(克也)監督に、「お前、あのボールを真似できないか?」と言われました。シリーズで、(ジャック・)ハウエルとか、秦(真司)さんとか、荒井(幸雄)さんとか、うちの左バッターがことごとく打ち取られている姿を見て、「お前がプロで生きていきたいのなら、あのボールを習得しなければダメだ」と言われました。

——高津さんと潮崎投手は、誕生日も一日違いの「同級生」です。アマチュア時代にはまったく接点はなかったそうですね。

高津 高校時代は彼のことはまったく知りませんでした。で、彼がパナソニックに入って、ソウルオリンピックに出て、ドラフト1位で西武に入って……、ということを報道で知っているぐらいでしたね。一緒のグラウンドに立つこともなかったし、僕にとって彼は「テレビの中の人」という感じでした。

——同じサイドスローで、シンカーを決め球にして、ともにクローザーでもあります。潮崎さんに対して、意識はしていましたか?

高津 めちゃくちゃ意識しましたね、年齢も一緒、投げ方も一緒、役割も一緒でしたから。セ・リーグ同士であれば対戦中にじっくり見ることもできるけど、リーグが違ったので、夜中のスポーツニュースなどで彼が投げる場面は注視していました。

——潮崎さんとの共通点、そして相違点は何でしょうか?

高津 僕と比べたら、スピードも速かったし、シンカーも一流だったし、僕のほうが優れている点は何もなかったですね。強いて言えば、僕のほうが背が高いぐらいかな(笑)。

対戦成績以上に感じた「西武との差」

——結局、1992年シリーズは岡林さんの力投むなしく、3勝4敗の惜敗でした。これを受けて、翌1993年のスワローズナインの雰囲気はどのようなものでしたか?

高津 チーム全体が「西武基準」になったように思います。セ・リーグのペナントレースに基準を置くのではなく、野村監督のミーティングも、「西武に勝つには?」とか、「日本一になるには?」というように、目線が変わったような気がしますね。確かに3勝4敗と、対戦成績で言えば大きな差はなかったのかもしれないけど、実際にはものすごく力の差を感じたシリーズだったと思います。

——対ジャイアンツ、対カープというよりも、明確に「打倒ライオンズ」という意識がチーム全体に広がっていたんですね。

高津 もちろん、巨人も阪神も強かったんです。でも、「もう一度、日本シリーズの舞台に立って西武を倒したい」という思いはとても強かったと思います。僕自身も、この年は「今度こそシリーズに出たい」「次は胴上げに参加したい」という気持ちが強かったですね。

——クローザーとしてチームに貢献し、そして日本一になる。高津さんにとっても、そんな明確な目標が芽生えたわけですね。

高津 いえ、「クローザーとして」ということは、この頃はそんなに意識していなかったと思います。1993年シーズンはリリーフを中心に投げていましたけど、「先発に戻りたい」とも思わなかったし、かといって「クローザーになりたい」とも思っていませんでした。考えていたのは、「ベンチ入りピッチャー11人、あるいは12人の中に入りたい」ということだけ。それが敗戦処理であろうが、ワンポイントであろうが、「とにかくベンチに入りたい」という思いだけでした。

——そのような思いを抱きつつも、1993年シーズンは6勝4敗20セーブという、堂々たる成績を残し、リーグ2連覇に貢献します。主力として念願の日本シリーズのベンチ入りを果たしました。

高津 前年の悔しさがあったから本当に嬉しかったし、「今年こそ、西武を倒して日本一になるぞ!」という思いで、この年のシリーズを迎えました。

(後編に続く)

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