20年前のワールドユース全試合フル出場。黄金世代・酒井友之の誇り

7月17日(水)6時17分 Sportiva

世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第13回:酒井友之(2)

 1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会、グループリーグを突破した日本は、ベスト16(決勝トーナメント1回戦)でポルトガルと対戦することになった。


1999年のワールドユースで、黄金世代の日本代表は快進撃を果たした photo by Yanagawa Go

 酒井友之は、日本が決勝まで勝ち上がって行く中、この試合が「ターニングポイントになった」と言う。

「ポルトガルは本当に強かった。もう1回やったら勝てない相手だと思いましたね。相手GKが負傷退場して10人になっても、僕らが思っているほどポゼッションできなくて、逆に押し込まれた。正直、よくPK戦まで持ち込んだなっていう感じでした。でも、トーナメント1発目の苦しい試合をPK戦で勝って、自分たちの力は世界でも通用するんだ、上に行ける力があるんだということがわかり、自信を持てた。これで勢いがついたなと思いましたね」

 チームとしての大きな目標のひとつが、それまでのU−20日本代表の最高位・ベスト8の壁を突破することだった。

 一方で小野伸二のように「優勝」を目標にする選手もいた。酒井は、大会での目標をどのようにとらえていたのだろうか。

「決勝まで行くことは予想できなかったですけど、まずは今までの記録を塗り替えるところですよね。そこをクリアできればという感じでした。結果的に、ベスト8(準々決勝)でメキシコを破って決勝まで行くんですが、ポルトガル戦で勝った自信と勢いがその後の試合に影響した。そこから個人の力以上のものがチームとしてまとまって出ていたと思います」

 チームに一体感を生み出すのに大きな貢献を果たしたのが、控え組の選手だった。酒井もベンチから大きな声をかけられ、勇気づけられたという。

「ベンチからいつもすごい声が聞こえてくるんですよ。初戦から盛り上げ役を播ちゃん(播戸竜二)がしてくれて、プレーしている自分らとベンチがひとつになって、すごくいい雰囲気だった。ホテルでは、みんな同じ年だし、よく集まって話をしていました。途中で、サブ組の選手とか(の髪型)がバリカンで丸刈りになったけど、僕は逃げました。格好つけるわけじゃないですけど、勢いじゃやらないよって(苦笑)。今なら、全然余裕でやりますけどね」

 チーム一丸となってベスト8でメキシコを撃破し、準決勝ではウルグアイを倒した。

 全力で相手を倒していく中、全試合にフル出場を果たした酒井は決勝にたどりついた時には、疲労困憊だったという。しかも試合前の食事にそれまでは出ていたおにぎりやうどんが、決勝前だけ出なかった。選手は戦う前に、エネルギーを確保できぬままスペイン戦に臨むことになるのだが、結果は無残なものに終わった。

「スペイン戦は、ここまで来たら全部出し切って優勝を目指そうと思ったけど、試合の入りが悪かったし、決勝に行けたことで満足感がちょっと出てしまったかなあと思います。でも、それ以上にスペインがすごくうまくて驚いた。シャビがいたけど目立たないくらい中盤でのポゼッションがうまくて……。自分たちはコンパクトにしてボールを取りにいこうとするんだけど取れないし、正確なサイドチェンジをやられたり、サイドにはスピードもある選手がいて攻められて、もうどうにもならなかった。しかも最後の試合だったせいかかなり疲れていて、体力的にも力尽きてしまった。(小野)伸二がいないのがあったし(警告累積で出場停止)、試合前の食事とか100%の準備をして戦いたかったなと思いますけど、たぶんそれでも結果は変わらないくらいスペインは強かったです」

 酒井は、スペインに負けたものの、決勝まで全試合に出場し、フルタイムで戦えたことに満足感を得ていた。実際、最終ラインの3人とGK南雄太以外で全試合にフル出場したのは酒井しかいなかった。「当時もそのあとも考えられないくらい走っていた」と酒井は苦笑したが、強敵相手にサイドラインを常に全力で上下動していたのだ。

 準優勝は、やり遂げた末の結果だった。

「世界2位になったメンバーに自分が入れて結果を出せたのは、すごく誇りに思っています。本当にすばらしいメンバーが揃っていたし、力を持っている選手が集まっていた。たぶん、もう1回あの大会をやり直しても決勝に行くだろうっていうぐらい、チームに力を感じました。今だったらチームの半分以上の選手が欧州に移籍していたんじゃないですかね。自分も行けていたかもしれない(笑)。準優勝という記録は今も破られていないし、この先、自分が生きている間に記録を破られることもないかもしれない。そのくらいすごいことをやったというプライドが今もあります」

 酒井は、帰国後、空港からそのまま市原臨海スタジアムに直行し、ベルマーレ平塚戦に出場した。準優勝の余韻に浸ることなく、現実の世界に戻ったのだ。だが、ナイジェリアに行く前と比べて、自信が大きく膨らんでいるのを感じたという。

「帰って試合に出たら余裕を持ってプレーすることができたんです。その後、シドニー五輪のチームができて、自分もやれると思っていたし、出たいと思っていました。まあ自分らの代が半分近くメンバーに入ったんですが、準優勝という結果を出し、戦術の理解度もあり、監督としては選びやすかったんだと思います。準優勝は、自分にとってシドニー五輪にもつながり、ラッキーだなと思いましたね」

 シドニー五輪の1次予選では酒井は主力としてプレーしていたが、最終予選での出番は少なかった。それでもシドニー五輪本大会の最終選考合宿に呼ばれた。その時は、ヒザを痛めてテーピングをしてプレーしていた。するとフィリップ・トルシエ監督が「酒井、大丈夫か」と声をかけてきたという。

「当時、伸二もケガで出場が難しくて、監督はいろいろ悩んでいたと思います。僕に『大丈夫か』って聞いてくることなんて、それまで一度もなかったですからね。その時、じつはヒザがかなり痛かったんですけど『ケガの予防のためにやっているので痛くないです』って答えたんです。そうしたら最終合宿の後のメンバー発表で、ギリギリでメンバーに入れたんですよ。でも、試合に出られる感じはまったくなかったですね」

 シドニー五輪のチームには、楢崎正剛、三浦淳宏、森岡隆三の3名がOA(オーバーエイジ)枠として入った。OA枠の選手を呼んだ以上、その選手をレギュラーとして使うということであり、実際に右のアウトサイドには三浦が入ってプレーした。酒井はヒザの故障があったので、今回はベンチでチームを盛り上げていこうと考えていた。

「オーストラリアに入って、試合の2日前ぐらいかな。監督に呼ばれて、いきなり右のアウトサイドに入るように言われたんです。何でかわからないですけどね。たぶん、ワールドユースでのプレーのイメージや、最後まであきらめずにメンバー入りした姿勢とかを評価してくれて、最後に出られたのかなあ。まあ、運よくメンバーに入って、運よく試合に出られたという感じですね」


黄金世代について語る、酒井友之

 シドニー五輪代表チームは、中田英寿らを中心に戦い、グループリーグを突破、ベスト8に進出した。準々決勝の相手はアメリカだったが、酒井はチームにナイジェリアワールドユースの時と同じ雰囲気を感じていた。

「決勝トーナメントに入って、ここで勝てば行けるんじゃないかっていうムードが、ポルトガル戦の時と同じだなって思っていました。チームの雰囲気が良かったし、良い流れを感じてはいたんですが、最後、PK戦で今度は負けてしまって……。結果は出なかったですけど、個人的にはいい戦いができたなって思っていました」

 酒井は、ユース、五輪と順調に代表を経験し、ステップアップしていった。次に目指すのはA代表入り、そして2002年日韓W杯だった。

(つづく)

酒井友之
さかい・ともゆき/1979年6月29日生まれ、埼玉県出身。2013年に現役を引退し、浦和レッズのハートフルクラブのコーチに就任。その後ジュニアチームのコーチを務め、現在はジュニアユースチームコーチ。ジェフユナイテッド市原ユース→ジェフユナイテッド市原→名古屋グランパスエイト→浦和レッドダイヤモンズ→ヴィッセル神戸→藤枝MYFC→ペリタ・ジャヤ(インドネシア。以下同)→ペルセワ・ワメナ→ペリシラム・ラージャ・アンパット→デルトラス・シドアルジョ

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