「私立校甲子園未出場地区」徳島県。生光学園は歴史を変えられるか

7月18日(木)6時37分 Sportiva

 47都道府県のなかで、私立校の甲子園出場がない県がひとつだけある──

 新元号最初の甲子園出場を懸けた、各都道府県大会が盛り上がりを見せている。夏の高校野球シーズンになると、必ずと言っていいほど語られる豆知識がある。それが「私立校未出場地区」の存在だ。

 春夏通じて私立の甲子園出場がないのは、全国でただひとつ、徳島だけ。さらに、徳島県内私立校で硬式野球部があるのは、生光学園のみだ。


悲願の甲子園初出場を目指す生光学園の選手たち

 徳島唯一の私立野球部である生光学園は、武田久(元・日本ハム、現・日本通運選手兼コーチ)、木下雄介(中日)ら4名のプロ野球選手を輩出するなど、県内でも強豪として名高い。秋春の四国大会にも毎年のように出場するなど、「あとは甲子園に行くだけ」と言っても大げさではない位置にいる。

 夏の徳島大会の決勝進出は、計3度。最初に甲子園に王手をかけたのは、武田久がエースだった1995年。2度目が2011年だった。1回目の1995年と、2011年には大きな違いがある。それが、系列の生光学園中の野球部である「生光学園ヤング」の存在だ。

 中学硬式野球の連盟である「ヤングリーグ」に加盟し、硬式野球部として活動行なっている。今でこそ全国で見られる体制だが、発足した2006年当時は先駆けともいえる取り組みだった。現在、副部長として高校野球部の指導に携わる橋本陽平(ようへい)が説明する。

「私立校の数自体が少ないのもありますが、徳島は”公立志向”が強い地域なんです。地元のいい選手に来てもらいたいと思っても、公立の強豪の存在が大きくてむずかしい。それなら、自分たちで育てていこうという考えから、中学の硬式野球部を立ち上げたんです」

 中学生が硬式野球をプレーする場合、学校外のクラブチームに所属するのが一般的だ。しかし、練習が週末にしか行えない、授業が終わった後、練習場への移動に時間がかかるなど、部活動に比べて制約が多い面もある。硬式チームでありながら、部活動として活動できる生光学園ヤングは画期的な存在だった。

 立ち上げに携わったのが、現在は中学、高校を「総合コーチ」として指導する平田薫氏(元・巨人)。元プロの指導のもと、学校のグラウンドで目一杯練習できる環境は県内でも評判になった。

 その生光学園ヤングの1期生たちが高校に進み、3年の夏を戦ったのが2011年だった。決勝では、徳島商と対戦。延長13回にもつれる激闘を繰り広げたが、悲願達成にはあと一歩及ばなかった。

 さらにスタッフ陣を悩ませたのが、中学で育てた選手たちの流出だった。

 中学時代は生光学園ヤングで腕を磨き、高校は甲子園行きの可能性を考え他校に行く。その選択を取る選手が表れ始め、ある年の夏に出場した公立校の出身中学一覧に「生光学園中」が何人も並んだこともあった。

 この現状を案じた生光学園スタッフたちが練り上げたのが、「100回大会に向けた6年計画」だった。橋本が言う。

2013年に生光学園ヤングに入部した選手たちが、かなり力があったんです。そのタイミングでプロアマ規定の改定もあって、平田コーチが高校も指導できることになりました。地力があって、さらに中高6年間平田コーチの指導を受けられるこの世代で勝負しようとスタッフで話し合いました」

 なかでも強烈な存在感を放っていたのが、湯浅麗斗(現・上武大)だった。少年野球時代のプレーも知る橋本が「大人が使うサイズの球場で小学生がフェンス直撃。バケモンでした」と語る長打力を、生光学園ヤングの環境でもスクスクと成長させた。

 6年計画世代の1つ上の学年にも力があったが、主力の多くが他校に分散。県内の強豪公立校だけでなく、隣県の甲子園常連私立に進んだ選手もいた。

 危機感を強めたスタッフ陣は、例年以上に中高の連携を強めていった。その結果、数名は他校に進学したものの、湯浅や高校でキャプテンを務めることになる月岡大成(現・駒沢大)を含むレギュラー7名が生光学園に入学した。

 入学後もスタッフ陣は、「100回大会で甲子園に行く」、そして「この代で徳島の歴史を変えよう」と繰り返し伝えてきた。


写真左から橋本陽平副部長、幸島博之監督、河野雅矢部長(前監督)

 その期待通り、多くの選手が下級生時代からレギュラーに食い込み、高校でも実力を遺憾なく発揮。最高学年になった2017年秋は県大会準優勝で四国大会に出場するなど、「100回目の夏」に向けて、自信を深めていった。

 満を持して迎えた夏は、初戦から準々決勝までの3試合をすべてコールド勝ち。準決勝では前年代表校の鳴門渦潮を11−5で退け、3度目となる夏の決勝進出を決めた。順調な勝ち上がりだったが、決勝前夜にあるアクシデントがあった。主砲の湯浅が準決勝で足を攣り、試合後病院に直行したのだ。

 病院で点滴を打ち、回復を待ったが、状況によっては決勝の試合出場にドクターストップがかかる可能性もあった。

 予断を許さない状況ではあったが、本人の「何が何でも試合に出る」という願いも通じ、医者からもGOサインが出た。決勝も「4番・レフト」で出場し、3点を追う4回に追撃のタイムリーを左中間に放った。

 しかし、湯浅のタイムリーのあとは、相手投手にかわされ無得点。3度目の挑戦、逆境を跳ねのけた主砲の存在をもってしても、勝利の女神は微笑まなかった。

 さらに、決勝で戦った鳴門の主将は、生光学園ヤングのレギュラーだった選手。中学時代ともに汗を流した選手たちの明暗が、決勝の舞台ではっきりと分かれる形となった。

 決勝後の心境を、当時は部長を務め、今年4月から監督に就任した幸島博之(こうしま・ひろし)が振り返る。

「甲子園に行けると本気で思っていたし、行かないといけない世代とも感じていました。この代が勝負だと伝えていましたし、『鳴門を倒して甲子園に行くぞ』ともスタッフから繰り返し言葉にしていました。実際に決勝の相手が鳴門。決勝前の選手たちにいつもと変わった様子もなく、『これなら』と思っていました。決勝が終わったあとも、しばらくは終わったと思えない、信じられない気持ちでいっぱいでした」

 100回大会の記念すべき夏、中高一貫の6年計画で育て上げた選手たちで高校野球の歴史を塗り替える。入念に準備を進め、目標まであと一歩のところまで迫っただけに、敗退後の喪失感は想像を絶するものだった。

 選手、指導者陣ともに自分を奮い立たせて戦った秋は2回戦敗退。今春も、秋と同じく2回戦で姿を消している。

 秋、春どちらかは4強以上に食い込むことがほとんどだった同校にとって、異例とも言える状況だが、幸島はこう力を込める。

「昨年決勝を戦うなかで、鳴門の選手たちから『オレが試合を決めてやる』という強い気持ちを感じました。逆に生光の選手たちは『うしろにつないで、誰かが決めるのを待っている』という面があった。最終的にはそこの差が勝敗を分けたと思っています。監督就任から約4カ月、『少しでもチームにプラスを』と考えてきましたが、僕にできることは限られていますし、監督で勝てるとも思っていません。こういう状況だからこそ、選手たちに『オレが決める』と思ってほしいと期待しています」

 そして、こう付け加えた。

「ここまで悔しい負けを経験してきて、『結果がすべてなんだ』と実感させられました。夏は初戦敗退も準優勝も差はなく、甲子園出場という結果を出さなければ同じだとも感じています。ある意味、開き直っていけたらと思います」

 また、春の公式戦終了後の4月に就任した幸島にとって、夏は公式戦初采配となる。それに加えて、生光学園OBが監督を務めるのも、幸島が初めて。初のOB指揮官として意気込みを語る。

「監督として初めての公式戦、めちゃくちゃ緊張すると思います(苦笑)。多くのOBがいるなかで、自分の現役時代の監督である市原清理事長から、『元号が変わった新時代に、卒業生の監督で新しい歴史をつくっていく』という意味合いも込めて、監督に指名していただいた。野球部の新しい歴史を、この夏につくっていきたいと思います」

 選手、指導者として生光学園で過ごすなかで、「周囲の目が変わりつつある」とも感じているという。

「僕が選手の頃は、『生光に甲子園に行かせたらアカン』という空気を感じていました。でも、今ではそういった意見も耳にしませんし、むしろ高野連の方々からも『そろそろ出てくれよ。そうしたら県のレベルもあがるから』と言っていただいています。生光の見方が変わったのは、今までの選手たちが公式戦の当番校として雑務を丁寧にこなしたり、あいさつを徹底してきたから。応援してくれる方々、OBたちのがんばりに報いるためにも甲子園出場という結果で恩返ししたい」

 悲劇と涙には平成で別れを告げた。創部史上初のOB指揮官の下、令和最初の夏に高校野球の歴史を変える。

Sportiva

「甲子園」をもっと詳しく

「甲子園」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ