20勝して一人前。権藤博が輝きを放った「ピッチャーが天下の時代」

7月23日(火)7時17分 Sportiva

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第2回 権藤博・前編

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代、プロ野球にはとんでもない選手たちがゴロゴロいて、ファンを楽しませていた。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。今回はドラゴンズ入団直後、いきなり人間離れした数字を残した権藤博さんの言葉を語り継ぎたい。


1961年10月7日、シーズン34勝目を挙げた権藤博を濃人渉監督が出迎える 写真=共同通信

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 権藤博さんはかつて、一瞬の輝きを放ったスーパーエースだった。1961年に中日に入団すると1年目にいきなり35勝、翌年も30勝と、とてつもない数字を残し、2年連続最多勝を達成する。

 が、この2年間で登板数が130試合にも上った影響で肩を痛め、以降は成績が急下降。野手転向の時期も含め、実働8年で現役を引退している。その後は中日、近鉄、ダイエー(現・ソフトバンク)、横浜(現・DeNA)でコーチを歴任。98年には横浜の監督としてチームを日本一に導いた。

 僕は、かねてから、「なぜ、ルーキーにしてそこまで投げなければならなかったのか」「なぜ、数字を見るだけで頭がクラクラするほどに勝てたのか」、直に聞いてみたかった。

 さらに権藤さん自身、今の投手たちをどう見ているのか、興味があった。2006年(取材当時)の日本球界は好投手の活躍が目立ち、「ピッチャーイヤー」と言いたくなるほどだった。日本代表が世界一となったWBCでは西武の松坂大輔がMVPを獲得し、ペナントレースでは2人の投手がノーヒットノーランを達成し、高校野球でも夏の甲子園では決勝戦および再試合の壮絶な投げ合いがあった。

 タイトルホルダーを見れば、パ・リーグではソフトバンクの斉藤和巳が勝利数、防御率、勝率、奪三振で四冠に輝き、セ・リーグでは広島の黒田博樹が最優秀防御率を獲得したが、いずれも防御率1点台。両リーグ1点台は1969年以来で、一方では若手の台頭もあったなか、プロ3年目で開幕8連勝を達成した中日の佐藤充は5試合連続完投勝利。これは権藤さんが61年に作った球団記録に並ぶものだった。

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 待ち合わせに指定された場所は都心にあるテレビ局関係のビルの前だったが、日曜日の午前中で人通りはなく、僕らはすぐ権藤さんに気づいた。挨拶をすると軽い会釈と同時に「そこに喫茶店がありますから」と言われ、後に続いた。コーデュロイのジャケットにネクタイというスタイルはいたって紳士的で、スッと伸びた背筋が若々しい。

 名刺交換を終えると権藤さんはアイスティーを頼み、やや前かがみの姿勢で黙って座っている。ファーストフード的な雰囲気の店ながら先客はゼロで、BGMも控えめな音量。にわかに沈黙が広がり、話のきっかけをつかむべく取材主旨を説明した。35勝に圧倒されたことから今の好投手の活躍まで伝えたが、その間、目はずっと伏せられ相槌もない。僕は丁寧になでつけられた髪と眼鏡の奥のまぶたを見続けるほかなく、緊張が走った。

 が、日本ハム対ソフトバンクのプレーオフで先発したダルビッシュ有、八木智哉、斉藤の名前を挙げると、権藤さんはひとつ咳払いをした。まぶたが微細に動いていた。

「あのぅ、やっぱり、近年になく、ピッチャーが充実してる時代が来た。ね?」

 僕は反射的に「はい」と返事をし、なんとか取材の立ち上がりを迎えられたことに安堵した。「充実してる時代」と表現されたことがうれしかった。

「われわれ、ピッチャー出身としては『今は打高投低の時代』っていわれるのはすごく面白くない。はっきり言って、面白くない」

 姿勢は前かがみのままだが、目は完全に見開かれている。表情は穏やかだった。

「実際は、本当は、野球ってのはピッチャーが中心で、まさしく、僕らの時代はピッチャーが天下の時代でね。いちばんいいのは『子どもの頃からピッチャーで4番』っていう時代。みんなそれで通用したから、まあ、20勝はやって一人前で、30勝すればスーパーエース、みたいな」

 68歳(当時)にして、「みたいな」という言葉遣いは意外だった。今の時代と「ピッチャーが天下の時代」が連なって語られ始めていることはもっと意外だが、当時の投手は皆、30勝が目標だったのだろうか。

「別に僕は、30勝を目指していたわけじゃなくて、プロに入る以上は最低10以上は勝ちたいな、と思ってたわけですよ。ところが、そんな満々たる自信もなかったのが、やってる間に、人を見てる間に、なんだ、これだったらオレのほうが……と思うようになって。終わってみれば、30超えてた、みたいな」

 今の投手たちの印象を聞く間もなく、急激に時代がさかのぼる。権藤さんは佐賀の鳥栖高からノンプロ(社会人野球)のブリヂストンタイヤに進み、ここで投手として成長を遂げた。徹底的な走り込みによって、スタミナだけは絶対の自信を持っていたという。

 そのノンプロ時代の4年間、1957〜60年のプロ野球の最多勝投手が凄まじい。まず、パ・リーグは57年に西鉄の稲尾和久が35勝、58年も稲尾で33勝、59年は南海(現・ソフトバンク)の杉浦忠で38勝、60年は大毎(現・ロッテ)の小野正一で33勝。セ・リーグは57年に国鉄(現・ヤクルト)の金田正一が28勝、58年も金田で31勝、59年は巨人の藤田元司で27勝、60年は巨人の堀本律雄で29勝。

 それ以前にも30勝投手はいるが、権藤さんにとってのプロ入りまでの準備期間は、特に30勝前後の投手が並んでいるのだ。

「今から考えたら、自分でない自分がやったぐらい、すごい記録だと思います。長年、野球に携わってきて、ピッチングコーチも長いことやって、監督もやって、本当に自分でないような自分を経験できた。だから、実は権藤っていうのは2人いて、1人は投げた権藤と、もう1人は肩を痛めてすごい苦しんで、そこからコーチやって、監督までやれたっていう、2人の権藤がいる、みたいな」

 活躍したのがルーキーイヤーからの2年間のみで、翌年以降は10勝、6勝となると、そういう感覚になるものなのか。まして1年目の権藤さんは勝利、登板、投球回、奪三振、防御率、完投、先発、どれもリーグ1位の成績で当然のように新人王、沢村賞も獲得している。その背景には当時の中日監督、濃人渉(のうにん わたる)とのノンプロ時代からの関係性があったという。

「濃人さんは田舎町の炭坑の、日鉄二瀬(にってつふたせ)というプロの予備軍みたいな強いチームの監督でね。いつも、にや〜っとしてて、すごい不気味な方でした。こっちは弱いチームでしたけど、二瀬と試合をやって、僕が投げる限りスコアはゼロ、ゼロが並んでいく。で、いつかはこっちが負けるんだけど、自分自身は力はつけていたんです。

 その後、濃人さんは中日の二軍監督になられて、僕が入ると同時に一軍の監督になった。二瀬のときから僕に対する期待と評価、両方してたんじゃないかと思いますが、キャンプのときは監督と話すことはなんにもなかったです」

 淡々とした受け答えが続く。資料には〈濃人監督は優勝のチャンスをものにするためには、この一人の新人と心中するしかない、と覚悟を決めた〉とあったが、権藤さん自身は監督をどう見ていたのか。

「まあ、厳しい人でした。当時、戦前から野球をやって、戦後に監督まで上りつめた人っていうのは、みんな戦争を体験してるわけです。仲間が戦地に行くとか、濃人さん本人も戦争に行ったと思うんだけど、戦時中には、いつ命をなくすかわからない、という気持ちがあったわけですよ。だから、頭の片隅にね、『なぁに、命まで取られやせん』っていうのがある。『肩が痛いぃ? ヒジが痛いぃ? そんなもんはたるんどる』っていうのがあるわけですよ」

 では、かなり早い段階から、登板数が増えそうな気配があったのだろうか。

「5月頃までは中4日ぐらいのローテーションで回ってたんです。それがある試合で完封した翌日、同点で次の回から出て行って、結局、1点取られて負けるんだけど、そのとき、監督の部屋に呼ばれて。おっ、怒られるかな、と思ったら、『稲尾でも、杉浦でも、完投した翌日に投げるんだから、これからも覚悟しとけ!』って言われて。そっからですよ、始まったのは、連投。権藤、権藤、雨、権藤は」

 まさか、ご自身の口から出ると思わなかったので、僕は思わず笑ってしまった。[権藤、権藤、雨、権藤]、その後に[雨、雨、権藤、雨、権藤]と韻を踏んで続く言葉。これは、雨天中止以外、権藤さんが常にマウンドに上がっていたという連投状態を、当時のマスコミが表現したものという。

 実際、61年の中日の全試合結果を見ると、権藤さんは5月末に初めて3試合連続で責任投手になっていて、その後、3度も4試合連続がある。このうち最も強烈なのは、8月27日の阪神戦ダブルヘッダーに連投して連勝、29日に国鉄戦で敗戦投手、30日の同戦で勝利投手になっている部分だ。実に4日間で3勝1敗。69試合登板で35勝19敗ゆえ、勝敗のつかない試合が15あったことを踏まえると恐ろしくなる。持参したページのコピーを指し示すと、権藤さんは小刻みにうなずいてから口を開いた。

「だからね、とにかくリリーフすれば、次の日もリリーフ。次の日もリリーフ。リリーフのチャンスあればね。で、ないと、中1日か2日空いたら先発。で、先発したら、また次の日、チャンスあったら投げる、みたいな。それで429イニングとか、69試合とかになっちゃったんだけど。ただ、自分としては、すごくうれしかったんですよ」

 それだけ投げた、という充実感がうれしさにつながったのだろうか。

「濃人さんに『稲尾でも、杉浦でも』と言われたことです。なんとか10勝以上を挙げるぞ、なんて思ってたのに、あの人たちと一緒に扱ってくれた、ということが。稲尾さんはその年に42勝やる、杉浦さんは38勝4敗で日本シリーズ4つ勝つとかね、そんな夢みたいな記録の人とオレも一緒か、という。35勝とかやったときよりも、そっちのほうがすっごい、今でも頭に残ってますね」

 スーパーエースたちへの強い憧れ。それが権藤さんの原動力となっていたようだ。その一方、優勝を狙う濃人監督に対して、意気に感じて投げることが底力になっていたのではないか。僕は以前、往年の名選手の方々から、名監督と大エースの関係はそういうものだ、と聞いたことがある。最たる例として、稲尾にとっての三原脩、杉浦にとっての鶴岡一人がそうだったと。

「いや、意気に感じるとかはなかったですね。確かに、あの年は巨人と優勝を争ってましたけど、結局、ハイになることがないまま終わりましたから。ようし、これならいける、これは負けれんぞ、負けるわけがない、つぶれてもいくぞ〜、っていうふうに、気持ちがハイになるような戦いのところには入れなかったですからね。ただ、がむしゃらに投げるだけで」

 この年、中日は首位の巨人に1ゲーム差で優勝を逃した。改めて全試合結果を見ると、権藤さんが最後に4試合連続で責任投手になって負けた9月17日、中日は2位に陥落し、そのままシーズン終了。確かに、最後まで熾烈な争いをした印象は薄い。考えてみれば、権藤さんの場合、稲尾も杉浦も経験した日本一になっていないのだから、同様にとらえられるものではないのだ。

 では、チーム内の目はどうだったか。10勝、20勝としていくうちに、周りの見る目はかなり変わったと思われる。

「そうねぇ。だけど、最初の巨人戦で勝って、次、完封したりなんかしてる間にもう、僕がエースだなと。それで途中からは、ほとんど一人で投げてるようなものでしたから、今から考えれば、周りの嫉(そね)みみたいなのもあっただろうしね。『な〜にが、新人のクセに。そりゃ、確かにすごいけど、なにが権藤、権藤だ』っていうのはあったでしょうね。

 でも、今から思えば、という話です。当時、1年目だから、周りがどうこうよりもできるだけ勝って優勝する。優勝できなくても、自分ではひとつでも多く勝つ。20勝したときも、20より21のほうがちょっと響きがいいなぁ、みたいな。で、25過ぎると、ここまで来たら30勝もいける。これ過ぎたら新人記録といわれたら、だったらそこまでいくぞ〜みたいな。そんな狙いですよね」

 35勝の中身がほぐれてきた。スタミナに絶対の自信があり、スーパーエースへの憧れにつながった監督からの指令があり、がむしゃらにより多く勝つことを目指した結果としての新人最高記録。ただ、それが生まれたのも、投手としての技量が卓越していたからにほかならない。このあと、話は驚異的な勝ち星を可能にした投球内容の秘密に迫る。

(後編につづく)

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