山本昌が語る名将3人との秘話。星野、落合監督の順番が逆だったら現役を長くは「やれていなかった」

7月25日(日)16時0分 Sportiva

 プロ野球の前半戦、セ・リーグは阪神タイガーズ、パ・リーグはオリックス・バファローズが優勝候補のソフトバンクを抑えて首位で折り返した。

「オリックスには宮城(大弥)君と山本(由伸)君というエースがいて、吉田(正尚)君という大黒柱がいる。野球は投手という点でいうとこのふたりのエースがいるのは大きいですね。勢いもあるし、優勝してもおかしくないですよ」

 山本昌さんは、ふたりのエースの活躍に目を細める。


星野仙一元監督(左)とのエピソードも語ってくれた山本昌さん(右)(写真は2000年当時のもの)
 プロ野球では若いエースが成長しつつある中、ひとつの時代の終わりを告げる発表があった。西武ライオンズの松坂大輔投手が今シーズン限りでの引退を表明したのだ。松坂は、ダルビッシュ有(パドレス)や田中将大(楽天)、菅野智之(巨人)、大野雄大(中日)らとともに先発完投を美学とする投手だった。

 山本昌さんもそういう哲学を持って投げ抜いた。

 変わりゆくエースというスタイル。

 中日ドラゴンズで32年間、現役生活をつづけ、エースとして君臨した山本昌さんは、今、エースという存在をどう見ているのだろうか。

「簡単に言うとチームが苦しい時に勝てる投手です」

 山本昌さんは、そう強調する。

「ケガに強いとか、ローテーションを守れるとか、いろいろありますが、エースが崩れたら負けなんだという強い精神力を持ち、チームを背負ってマウンドに立てる存在ですね」

 今、投手は、先発、中継ぎ、抑えの分業制がベースになっている。そのため、先発完投型のエースと呼ばれる選手が少なくなった感があるが、分業制は先発投手の役割にどんな影響を与えているのだろうか。

「今の時代、先発投手は完投にこだわらなくなっていますね。ただ、勝つ確率でいうと先発投手は7、8回まで投げて直接リリーフに繋いだほうが高くなると思うんです。でも、今は7、8回で中継ぎを入れることが多くて、そこで試合が動くことが多いですよね。それで勝ち星を失ったりするんです。その結果、先発の勝ちが減り、同時に200勝を達成する投手が減っているのかなと思いますね」

 200勝(日米通算)は黒田博樹が2016年に達成したが、それ以降は生まれていない。今一番、200勝に近いのが田中将大で181勝だが来年以降になるだろう。200勝投手の減少とともに先発に勝ち星が増えないのは分業制に加え、100球という球数制限が守られるようになり、勝敗を決する前に先発が交代してしまうことが多いからでもある。

「最後まで投げ切ることで、9回に点を取ったり、逆転勝ちして勝ち星を拾ったりするんです。もちろんその逆もありますけどね(苦笑)。今は、中6日が基本ローテーションで試合も143試合と多いじゃないですか。 僕は100球ではなく、120球まで増やして、先発が投げている中で勝ち星をつけていってほしいと思います。そうして、これから一人でも多くの200勝投手を出してほしいですね」

 エースは、いろんな制限の中で投げているが、勝ち星を挙げるのが難しくなっているのはそれだけはない。エースには相手チームもエースをぶつけてくるので、ただでさえ勝つのが難しい。山本昌さんも現役時代、エースをぶつけられ、特に巨人戦は毎回大変だったという。

「90年代、巨人戦になると斎藤(雅樹)さん、桑田(真澄)さん、槇原(寛己)さんが出てくるんです。3人のエースと投げる時は意識しましたし、かなり疲れましたね。相手も『負けられない』とかなり意識していたと思います。エースとの対戦は、どの試合も負けられないのですが、私が一番負けられないと思った試合は、1999年9月の巨人戦です。3連戦で2試合を落として、3戦目に好調のガルベス投手と投げ合ったんです。優勝がかかった試合で緊張と気合いで家を出て、気がついたら試合が始まっていた、みたいな感じで、その間の記憶が飛んでいたんですよ。試合には勝利(6−2)したんですが、ここまで記憶がなくなるような試合は、この時だけですね」

 ここまで強烈なインパクトを残した試合はないが、思い出に残る試合はいくつかある。2006年、中日が首位を走る中、9月16日、山本昌さんは阪神相手にノーヒットノーランを達成した。だが、その後、阪神が8連勝して追い上げてきた。甲子園での首位決戦、初戦を落とし、つづく絶対に負けられない試合で山本昌さんが先発した。

「最初に川上憲伸が負けて、2戦目は相手が福原(忍)投手で、もう絶対に負けられない試合になったんです。超満員の甲子園、大ブーイングの中で投げて勝ったんですが、これもすごく思い出に残っています」

 優勝がかかった試合でのエース対決は見ていてワクワクするし、魂を焦がして投げ合う姿は見ていて非常に痺れるが、日本シリーズなどの大舞台でのエース対決もかなり興奮する。山本昌さんは、2004年西武との日本シリーズで第2戦と第6戦で先発し、若きエースの松坂大輔と投げ合った。

「松坂君は、神奈川県の先輩後輩で話をしたことがあったぐらいだったんですけど、投手としてはすごかった。若くて勢いもあって投げ合うのは大変でしたね。最初は僕が途中交代したんですがチームは勝ったんです。6戦目の時は負けたんですが、1勝1敗で、大舞台で相手エースと投げ合うことができたので、この試合もすごく印象に残っています」

 2006年以降、山本昌さんの球を受けていたのはレギュラー捕手の谷繁(元信)ではなく、小田幸平さんだった。小田さんは山本昌さんの専属捕手になっていたが、他のチームでもエースには専属捕手が就くケースがわりとある。ソフトバンクでは斉藤和巳投手が的場直樹捕手とのカップリングだったし、菅野投手には小林誠二捕手がつくことが多かった。

「僕は、ノーヒットノーランも200勝の時も谷繁だったんです。晩年は小田くんが球を取ってくれたんですけど、それは谷繁を休めるという意図があったと思います。捕手は激務ですし、休める時に休ませておかないと1年もたないんですよ。僕は捕手が誰でも気にしないタイプでしたし、首脳陣からも『昌なら違う捕手でもいいんじゃないか』と言われていましたから(笑)。でも、捕手にはかなり恵まれていたと思います」

 山本昌さんは、その後も引退するまで多くのエースと投げ合った。現在は、なかなかエースが誕生しにくい時代でもあるが、エースの風格を持った投手はいるのだろうか。

「ドラゴンズの大野(雄大)投手、巨人の菅野投手かな。でも、今、一番エースっぽい風格を漂わせているのが涌井投手(秀章・楽天)ですね。沢村賞を始め最多勝のタイトル(4回)を取っていますが、とにかくすごいのが打たれても抑えても淡々としていること。菅野投手は気合いが表面に出るんですけど、涌井投手は底が見えないというか、ピッチングの凄みというのを感じます。なんかエースっぽいなという感じがしますね」 

 日本では最近、オリックスの宮城投手ら活きのいい若い投手が活躍しているが、メジャーでの注目はなんといっても大谷翔平だろう。投打に活躍する二刀流だが、30本以上のホームランを打ち、160キロの剛速球を投げ、アメリカのファンを熱狂させている。

 大谷は、エースに成り得る存在なのだろうか。

「いつか体の負担を考えて、打者か投手かに絞らないといけなくなった時、僕はバッターで挑戦してほしいなって思います。これは日本にいる時からそう思っています。実際、今アメリカでは投手としての成績は上がっていないですけど、バッターとしてはホームランを量産していますし、オールスター戦でホームラン王争いをしました。打球も早くて、本当に怖いバッターなので、打者に専念したら成績がもっと上がると思います」

 山本昌さんは元投手ゆえに打者として打席に立った時の大谷の怖さ、魅力をよく理解しているのだろう。

 山本昌さんは、エースとして活躍した現役時代、ふたりの個性的な監督の下でプレーしている。星野仙一元監督と落合博満元監督だ。

「星野さんの時は若かったので、叱られても必死に食らいついていくような感じでしたね。叱られているうちはチャンスをくれるんで、それでホッとしている自分がいましたが、若い時代でよかったです。星野さんと落合さんの順番が逆だったら(50歳まで)やれていなかったですよ(苦笑)」

 落合元監督は、どういう監督だったのだろうか。

「落合さんは、勝つためにどういう選手を使うのかを常に考えていました。その考えで私は晩年、救われました。落合さんは、『若手とベテランが同じ力ならベテランを使う。ベテランのほうが試合を勝つ術を知っているから』と言ってくれたんです。普通は逆なんですよ。同じような力だと若手にチャンスを与えると思うんですけど、今、勝てるのはどっちという考えで起用してくれた。50歳までやれた道を作ってくれたのは、落合さんでした」

 投手出身の星野元監督は、よくブルペンに顔を出しては厳しく指導していた。「監督になるぐらいの人はエースになっているし、投手のことをわかっているのでうるさいんです」と苦笑するが、対照的だったのは落合元監督だった。投手のことは森繁和投手コーチに任せきりで、たまにブルペンに現れると投手がみなビックリするほどだったという。

「落合さんは、僕が200勝投手になった時に『昌は自分でやめられる投手になった』と言ってくれたんです。それ以降、私がやりますと言えば、周囲は何も言わずにやらせてくれるようになったので、その言葉は本当にうれしかったですね」

 星野元監督から嬉しい一報を受けたことも忘れられないという。星野元監督は1991年に中日を退団し、解説者になっていたが、1994年シーズン後、突然電話がかかってきた。

「おい、昌、お前、沢村賞を獲ったぞ」

 山本昌は「本当ですか」と驚くと、「本当だ、俺は選考委員だ。今、決まったぞ」と受賞を非常に喜んでくれた。

「星野さんが推してくれたのかなぁって思いました」

 ふたりの監督の下でプレーし、星野元監督時代は2度、落合元監督は4度、優勝の歓喜を味わった。一方で対戦した中でもっともやりにくさを感じたのは、野村克也ヤクルト元監督だったという。

「野村さんは、非常にやりにくいというかすごい監督でした。僕が嫌だなというバッターを前の試合では外しているんですけど、僕が投げる時に打順に入れてくるんですよ。土橋(勝征)選手、橋上(秀樹)選手、城(友博)選手とかね。そういうのが鋭くない監督は逆に嫌だなって選手を試合の日に外してくれるんです。野村さんは、そこが鋭くて、打順を見ると、あー今日は入っているなぁっていつも思いましたね(苦笑)」

 星野元監督と野村元監督は、鬼籍に入り、名将とのやりとりや勝負は経験として生きている。山本昌さんは2015年に引退後、阪神の臨時投手コーチや母校・日大藤沢高校のコーチをしたりしているが、まだ現場復帰を果たしていない。

 プロ野球界に戻る気持ちはあるのだろうか。

「僕は、後輩たちに経験を伝えていきたいと思っています。そのために今も勉強していますけど、なんせドラゴンズから声がかからないですね(苦笑)。ドラゴンズ1本というわけではないですし、まずは伝えることが大事。もう1回選手とグラウンドで汗水を流したいですし、なんとか早くユニフォームを着たいなって思っています」

 「中年の星」としてこれまで多くの人に勇気を与えてきたが、今度は球界を代表するようなサウスポーを育成する。それは、左腕一本で50歳まで投げ続けてきた山本昌さんだからこそできる夢のある物語だ。


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