「両方打ちゃあいいんだ」。柴田勲は、いきなり監督命令でスイッチに

8月15日(木)12時37分 Sportiva

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第3回 柴田勲・前編

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしているが、その時代、プロ野球には魅力的な選手たちがゴロゴロいて、ファンを楽しませていたことを忘れずにいたい。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。今回は、巨人戦中心のナイター中継で全国のお茶の間にもおなじみだった”スピードスター”柴田勲さんの証言を伝える。


1966年、南海との日本シリーズは大活躍でMVP。背番号は12だった(写真=共同通信)

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 柴田勲さんに会いに行ったのは2007年6月。もともとのきっかけはスイッチヒッターだった。編集者との打ち合わせで「日本プロ野球初のスイッチは誰なのか」が話題になった。パッと思い浮かんだのが「元祖」とされている柴田さんだったが、いきなり挑戦したとは考えにくい。日米いずれかで参考にした先達がいたはず、ということで資料を当たってみた。

 アメリカでは、1870年に左右両打席に立った選手がいたことが記録に残っていて、それが第1号といわれているという。ただし本格的なスイッチヒッターの登場は20世紀初頭で、たとえば、1919年からジャイアンツとカージナルスで活躍した二塁手のフランキー・フリッシュ。彼は生涯打率3割を残している。

 また、両打ちのパワーヒッターの元祖として、51年からヤンキースで活躍したミッキー・マントルがいる。メジャー18年間で通算536本塁打、生涯打率.298、56年には三冠王とMVPに輝いた史上最強のスイッチヒッター。彼の成功によって、現在に至るまで続々と両打ちの選手が出現することになる。

 日本では柴田さん以前、両打ちとして記録に残っているのは1950年、毎日(現・ロッテ)で右の強打者として活躍した別当薫。ただ、資料には〈どこかの試合に面白半分に左で打っただけである〉と記述されているように、本格的ではなかった。となると、やはり柴田さんが最初なのか──。

 もうひとつ、スイッチとは別に、柴田さんへの興味が増す出来事があった。07年5月17日、田中幸雄(元・日本ハム)が史上35人目の通算2000安打を達成した翌日、スポーツ紙にこんな記述があった。

〈規定打席に到達したシーズンで打率3割以上を一度もマークせずに2000安打を達成したのは、柴田勲(巨人)に次いで2人目〉

 2000安打=好打者=3割打者、という図式からすれば、なんとも意外な数字だ。柴田さんが活躍した時代は”投高打低”傾向にあり、3割打者自体が少なかったとはいえ、6度の盗塁王、セ・リーグ記録の通算579盗塁を誇る俊足のスイッチヒッター。左打席で、足で稼げる内野安打も多かったと思うが、実のところはどうだったのだろう。そもそも、なぜスイッチに転向することになったのか。

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 想像していた以上に若々しい──。都内の待ち合わせ場所に現れた柴田さんを見て、僕はとっさにそんな印象を持った。身ごろのたっぷりしたシャツに色落ちしたジーンズを合わせた着こなしは、63歳(当時)という年齢でなかなかできるものではないと思う。短く刈り込まれた髪から革靴まで、全体のトーンが自然に調和していた。

 歩み寄って挨拶をすると、柴田さんは「おおっ、どもどもっ」と言ってすぐ「どっかに喫茶店かなんかあるかな。ある? あった?」と続けた。ラジオの解説で聞く声よりも野太く、しゃがれていて勢いがある。解説はいつも笑い交じりでやわらかな口調、と記憶していたから意外だった。

 あらかじめ探しておいたカフェテリアはまだ昼前の11時でも満席に近く、取材に適した奥の席はふさがっていた。それでも柴田さんは何も気にせず、空いていた真ん中の席にずんずん進んで座り、「しかし昨日のジャイアンツ、なんだったのかね。負ける展開じゃなかったんだけど」と言った。OBとして、今の巨人の戦いぶりが気になっている様子だった。

 柴田さんはホットサンドとアメリカンコーヒーを注文し、「今日は12時15分までだな。あんまり時間がないから、行こっか」と言った。僕は早速、スイッチになったきっかけを聞いた。

「オレは子どもの頃から右投げ右打ちだったんだけど、中学のときにね、ちょっと左で打ったことがあるのよ。最初は遊びで練習して、試合でも打ってみたりして。ミッキー・マントルにあこがれてたからね」

 いきなり、マントルの名前が出た。中学時代からメジャーのスイッチヒッターに興味を持っていたとはすごい。

「でも、その当時、今みたいに情報がないからさ、どんな選手なのかはわからない。それはもう野球雑誌で写真をチラッと見て、アメリカにスイッチヒッターでマントルっていうのがいる、ってのを読んだり。あとは映画館に行って、たまぁに動いてるとこをニュース映像で見たり。そんなことで、いる、っていうことだけ知ってて、結局は右打ちに戻って高校に行って、ピッチャーをやるわけだけど、オレはもともとバッティングは悪いほうじゃなかった。甲子園でも結構、打ってるしね」

 柴田さんは高校時代、法政二高(神奈川)の2年生エースとして、60年夏の甲子園でチームを優勝に導く。翌61年のセンバツでも優勝し、夏春連覇を達成。同年夏の甲子園はベスト4も、柴田さん自身は甲子園で投手として12勝1敗、打者としては14試合で46打数19安打、打率.413と打ちまくっている。

「で、3年の夏に負けて帰ってきて、当時はまだドラフトがない、自由競争だからね。ジャイアンツからは川上監督がスカウトに来てくれて、南海(現・ソフトバンク)からも監督の鶴岡一人さんが来てくれて。

 周りは鶴岡さんの人柄に惚れたっていうのかな、『南海がいいんじゃないか』と言うんだけど、オレは子どもの頃から巨人ファンだった。川上さんにあこがれ、その後にエンディ宮本さんにあこがれ、中学・高校時代は長嶋(茂雄)さんにあこがれ。そんなことで最終的には巨人に入ったんだけど、初めからどうも話がおかしかったんだよな」

 おかしいと感じたのは、監督の川上哲治からの言葉だった。「キミはバッティングもなかなかのもんだと聞いてる。だからもし、ピッチャーでダメだったときには、バッターに転向してもいいんじゃないか。自分もそうだったし、王もそれで成功してるから」と言われた。投手として獲りに来ていながら、まだ入団も決まっていない段階から野手転向話を出されたことが疑問だったのだ。

「でも、入団して1年目のオープン戦、3勝0敗で、オレがいちばん成績がよかったわけ。それでね、DHはないから、ピッチャーも打たなくちゃいけない。あるとき、バッティング練習をしてたら、『おい、柴田。おまえ、中学のときに遊びで左で打ったことがあるんだってな』って川上監督が急に言うわけよ。どうも、中学の監督と川上監督が会う機会があって、話をしたらしいんだよね。オレはまったく知らなかったんだけど。

 それで『2ヵ月ぐらい左で打ったことがあるんです』って答えたら、『そうか。じゃあ、おまえ、ちょっと左でも打ってみろ』と。で、何本か左で打ってみたら、『おまえ、結構いけるんだな』と。まあ、そのときはそれで終わったんだけど」

 柴田さんはそう言うとコーヒーを飲み、ホットサンドを手に取った。スイッチはともかく、監督の中で柴田さんを打者に転向させる構想が当初からあったとしても、投手としての期待度も高かったはず。なにしろ62年、柴田さんは新人ながら開幕第2戦に先発しているのだ。

 が、結果は4回2/3を投げて被安打6、3本塁打を浴びてKO。その後はリリーフでも結果が出ず、ファームでの登板もあり、7月31日の中日戦が最後の一軍マウンドとなった。

「それで『バッターに転向しろ』って言われてね。『ピッチャーじゃ、ちょっとボールも素直過ぎてよくねえから』って。でもオレ、開幕カードに投げたピッチャーなんだよ。『嫌です』って言ったの。ふふっ」

 目尻の皺(しわ)がより深く刻まれ、半円形の眉が下がっていた。監督に反抗できたのも甲子園優勝投手のプライドがあったからなのか、柴田さんはあくまでも投手としてプレーしたかったのだ。それにしても、かなり早い打診だと思える。

「だから断ったんだけど、もう一軍では投げさせてくれないんだよ。で、シーズンが終わって秋季練習のときに転向することになった。そしたら、『ただ普通に転向するんじゃ面白くねえから』ってんで、『ドジャースのモーリー・ウイルスみたいな選手になれ』と。というのは、その年の春、コーチの牧野茂さんがベロビーチのドジャースキャンプに行って、その選手を見てきたんだね。それが1番でショートを守って、スイッチヒッターで、足を生かして盗塁王を獲ったらしいんだ。オレは見てないからわかんないんだけど」

 そうだったのか……。文献資料では、モーリー・ウイルスは50年から6年連続ナ・リーグ盗塁王、通算586盗塁を記録した選手で、〈66年に日米野球で来日した際、柴田に盗塁のアドバイスをした〉と記されていた。しかし、スイッチヒッターのお手本になっていたことまでは触れられていなかった。

「それで監督に『モーリー・ウイルスってどんな選手ですか?』って聞いたら、『いやいや、いいんだ、いいんだ。左でも右でも、両方打ちゃあいいんだ』って、それだけだよ。

 まあ、オレは小学生のときから足は速かったし、あるとき、チームでいちばん速いっていわれてた長嶋さんと100メーター競走させられて、オレが勝ったのね。だから、そういうのも監督の頭にあって『両方』って言ったんだと思う。ピッチャーのほうに強い打球を打って、内野ゴロを打って、それで足を生かして塁に出たら走る。でも、オレはどうせスイッチヒッターになるなら、モーリー・ウイルスよりも、ミッキー・マントルみたいになりたかったんだよ」

 柴田さん以降、日本のプロ野球で活躍したスイッチヒッターは足を生かす選手のほうが多い。しかし柴田さん自身は、スイッチヒッターは打つことが主体、という認識だったのだろうか。

「認識も何も、日本のプロ野球でスイッチヒッターは誰もいなかったんだから」

 やはり、柴田さんが元祖だったのだ。日本にもほかに先駆者的な野球人がいたのかも、と考えていたが、それは考える必要がないことだった。ただ、監督の指令はあまりにも唐突ではないか。

「唐突でもやるしかなかったのね。ミッキー・マントルの場合は、子どもの頃から親が両方打たして育て上げたそうだけど、オレの場合は、ただ『両方で打て』で終わりだから。今だったら、手本にすべき選手がいたらね、ビデオとか見せてくれたりするんだろうけど」


スイッチヒッター挑戦の経緯を語る、取材当時の柴田さん

 いずれにしても、メジャーのスイッチヒッターが参考になっていた。とりわけ、モデルになった選手がいたという意味で、ドジャースの存在が大きい。当時の巨人は『ドジャースの戦法』を教本に、他球団に先んじてチームプレーに徹した細かい野球を実践し始めていた時期。守備面ではフォーメーションプレー、攻撃面では機動力を存分に生かしていく。監督の川上はそのなかで柴田さんの打力と足に早くから着目し、それ以前のプロ野球には存在しない選手を創り上げようとしていた。

(後編につづく)

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