打倒・松坂に燃えた夏。PL主将の平石洋介は最高のチームを完成させた

8月15日(木)6時37分 Sportiva

連載第4回 新リーダー論〜青年監督が目指す究極の組織

「これは打てん」

 横浜高校の松坂大輔(現・中日)のボールは、PL学園のコーチである清水孝悦(たかよし)の想像をはるかに超えていた。

 1998年のセンバツ。

 清水が初めて松坂の投球を目の当たりにしたのは、横浜対郡山の準々決勝だった。「大会ナンバーワン」と松坂の評判は耳にしていたが、「常勝PL」の精神が根付く清水からすれば、「いいピッチャーだろうが、そこまでではない」と予測を立てていた。


PL学園の主将として1998年の甲子園に春夏連続出場を果たした平石洋介

 郡山戦の試合前ブルペンで観た松坂のボールは、センバツ出場校の投手どころか、同世代の誰よりも突出していた。最速150キロのストレート。打者に「消える」と言わしめる高速スライダー。すべてが一級品だった。

「完全試合を食らうんちゃうか?」

 常に強気。「勝つも負けるも、お前らの腹ひとつやでぇ!」と選手たちの尻を叩く男が、畏怖の念に駆られるほどだった。

 主将の平石洋介も清水と同じ認識だった。

 背番号「13」ながら、準決勝に「2番・ライト」で出場した平石は、松坂の前に3打数無安打と屈した。

「別格でした。センバツは、僕らも初対戦だったこともありましたけど、同じ高校生であれだけのピッチャーは見たことがなかった。関西もそうだし、全国には高いレベルのピッチャーが多くいましたけど、大輔は頭ひとつ、ふたつ抜けていました」

2対3。PL学園は敗れたとはいえ善戦した。それどころか、7回まで2対0と横浜を追い詰め、逆転を許したのもちょっとした守備のミスだった。松坂に対しても5安打と、完璧に抑え込まれたわけではなかった。

 結果はPL学園の意地と力を示しているかもしれない。しかし、清水や平石が考えたように、松坂は別格だった。

「打倒・松坂」「横浜を倒して日本一に」——敗戦直後、PL学園の選手たちは誓いを立てた。

 常勝の闘志に炎が宿る。じつはこの時、PL学園は岐路に立たされていた。当時の最多記録である甲子園通算58勝の名将・中村順司が、横浜戦を最後に勇退。それに伴い、コーチの清水も現場を退き、実家の寿司店を継ぐ予定だった。だが、横浜戦が運命を変えた。中村が去り、清水は残った。男気と意地。コーチ続投はそこに尽きる。

「センバツであんな終わり方をしたんじゃ、辞めるに辞められないですよ。『打倒・松坂』。負けた瞬間から選手らの間にもそういう雰囲気が出ていましたし、『平石らの夏を見捨てて辞められへん!』というかね。それに、中村監督がいなくなったから、夏は甲子園に出られませんでしたっていうのもね。『中村監督の力は大きかったんやね』って思われたくもなかった。せやから、オヤジに『頼むから夏までPLにいさせてくれ!』って」

 春夏通算6度の全国制覇を成し遂げた中村は、PL学園の象徴だった。その絶対的な存在を失うとなればチームに動揺が走ってもおかしくない。それでも高いモチベーションを持続できたのは、清水の残留が大きい。

 主将の平石は、中村が辞めたことで「チームが沈むことは一切なかった」と断言した。

「清水さんが残ってくれたのは大きかったですね。中村さんが監督時代も練習メニューは清水さんが決めてくれていましたし、河野(有道)さんが監督になられてもそれは変わらなかった。中村さんが勇退されたことで寂しさはありましたけど、それも力に変えられたというかね。春に敗けてから、すぐに『夏こそは日本一になろうな!』って雰囲気になりましたから」

 新監督の河野は選手の自主性を重んじるスタンスだったことで、センバツ後の平石はよりコーチの清水との連携を深めた。

 練習でより選手の動き、プレーに目を凝らす。打者ならばバットのグリップの位置からスイングの軌道、重心のバランス、体重移動と、細部までチェックし、頭にインプットする。戦術面にしても、練習でのシート打撃でサインを出す清水の意図を汲み取り、試合前日にはそれらの要素をまとめ、清水と照合して臨む。そんな日常が当たり前となっていった。

 コーチの清水は、試合になればベンチにいない。だから、平石は球場に入ると、まずスタンドを見渡す。「あそこに座ってるな」。清水がいるだけで、落ち着いて試合に臨めた。

 平石は「センバツが終わってからは、キャプテンとしての責任感が増した」と言った。それは、コーチの清水も感じていたことだ。

「こんなこと言うたら、監督に申し訳ないけど、平石は全部を整理して、試合では選手らに指示を出していたと思いますよ。そういう大変な役割を担いつつ、平石って男は、3年生やベンチメンバーだけじゃなしにね、部員全員をまとめ上げていったんですわ。大人には見えない子どもらの世界でね。平石のキャプテンシーは随一やったんです」

 夏。PL学園は南大阪大会を制し、リベンジの挑戦権を得た。その舞台は、当人たちが予期せぬ形で訪れた。PL学園が3回戦を戦う前に行なわれた、準々決勝の抽選会。主将の平石は、クジを引く前に苦笑いしていた。

 6校の対戦相手が決まる。クジを引く前にPL学園と横浜がベスト8で対戦することが、その時点で決まった。抽選を見守っていた甲子園のファンが歓声を上げる。平石が横浜の主将・小山良男を見ると、互いに目が合った。

「決まってもうたな」

 ふたりとも頷きながら、ぎこちない笑みをつくったと平石は記憶している。

「欲を言えば『夏の甲子園決勝で』というシナリオを、僕らは描いていましたからね。でも、そこはどうすることもできないですから。良男と笑いながらひと言、ふた言、会話をしたような気がしますね」

 選手の誰もが「横浜を倒さなくては日本一になれない」と抱いていたものの、先を見据えるばかりに目の前の敵に足元をすくわれることはよくあることだ。だからむしろ、準々決勝で対峙することがわかったことは、チームにとって好都合だった。

 5対1で快勝した3回戦の佐賀学園戦後から、PL学園はすぐに臨戦態勢に入った。帰りのバスのなかで清水が提案する。

「学校の室内で打ちたいやつおるか?」

 バッテリーと清水が指名した数人の選手を除き、全員が挙手した。

 PL学園の室内練習場。そこには、清水が理想としてきた光景が形成されていた。

「これが、平石がまとめ上げたチームや!」

 いつもなら「お前ら、はよ準備せぇ!」と怒声で促すところ、メンバーが室内に入ってきた時には、後輩たちによってスタンバイは完了していた。「いつでも始められます」といった温和なムードではない。「こっちは投げたくてうずうずしとんねん。はよ投げさせろや!」。そんな殺気が漂っていた。

「なんも言わんでもいい状態やった。ホンマすごい雰囲気やった」

 強面の清水の表情が引き締まる。主将の平石も「こいつら、俺たちの戦いに乗っかってきてくれている」と胸が熱くなった。

「先輩からすれば『後輩はやって当たり前』ってなるかもしれませんけど、あの練習は後輩たちも本当に気持ちを込めてくれたというかね。本当に僕らのために投げてくれました。すごく印象深い時間でしたね」

 5メートルほどの至近距離からストレートと変化球を打つ。それは福留孝介(現・阪神)が3年だった1995年から導入された、PL学園の名物練習のひとつだった。

 全力投球する清水が凄む。

「松坂を打つんちゃうんかい!」

 はじめのうちはバットにかすりもしないどころか反応もできない。10球、20球……選手たちの思考が徐々に冷静になっていく。「どうしたら打てるか?」。トップの位置が低い選手は、あらかじめ高い位置でバットを構え、脚を高く上げるフォームの選手ならばノーステップに切り替え、スイングの始動を早める。

「バットを振れ! 見逃すな!」

 清水の怒号が飛ぶ。PL学園では見逃しは厳禁。バットを振ることで対応力を養わせるためだ。それは、至近距離でも同じである。

 ストレートと変化球に目が慣れていく。体の反応が速くなり、バットにボールが当たるようになる。ファウル、ゴロ、フライだった打球が徐々にバットの芯でとらえられるようになる。気がつけば、時計の針は21時を回っていた。準備は整った。

 宿舎に到着したのは22時過ぎだったと、平石は記憶している。

 翌8月20日の横浜戦は8時30分開始の第1試合だ。朝は4時頃には起床するだろう。気持ちは高ぶっているが、頭は冷静だった。平石は床に就き、すぐ眠りについた。

Sportiva

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