重量挙げの魅力に取りつかれた男。五輪でメダルに迫った池畑大の大誤算

8月21日(水)6時37分 Sportiva

PLAYBACK! オリンピック名勝負———蘇る記憶 第5回

東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 ウエイトリフティング男子59kg級の池畑大にとって、26歳で挑む1996年アトランタ五輪は、最初で最後のオリンピックと決めていた大会だった。


最初で最後の五輪と決めて、アトランタオリンピックに臨んだ池畑大

 ウエイトリフティングは、64年東京五輪と68年メキシコ五輪で三宅義信・義行兄弟が活躍したことから「日本のお家芸」と言われ、76年モントリオール五輪でも銅2個を獲得した。だが、ソ連など当時の社会主義諸国がボイコットした84年ロサンゼルス五輪で銅3個を獲得したあとは、メダルに手が届かない競技になっていた。そんな状況で池畑は、久しぶりにメダルを期待される存在だった。

 池畑がウエイトリフティングに出会ったのは、鹿児島商工高(現・樟南高)に入った時だった。父親が経営する自動車整備工場を継ぐと決めて自動車科に入り、競技をするつもりはまったくなかった。だが、ウエイトリフティング部の監督から勧誘を受け、一度経験してみると一気にのめり込んだ。予定外の大学にも進み、大阪商業大学2年の頃には、2年後の92年バルセロナ五輪を目指すことにした。それが実現すれば競技を辞め、家業を継ぐつもりだった。

 だが、バルセロナ五輪出場はならなかった。56kg級の代表は確実と思われていたが、最終選考会の1回目の計量で体重450gオーバーで、1時間後の2回目の計量までに300gしか落とせず、失格となったからだ。

 父親にもう一度やらせてくれと頼みこんだ池畑は、大学卒業後の93年に自動車専門学校へ進む。同時に協会の強化合宿所に住み、専門学校とウエイトリフティングだけに没頭する日々を過ごした。そして、59㎏級に上げて臨んだ94年世界選手権では、トータル287.5kgの自己最高記録で4位。ようやく、五輪のメダルが見えはじめた。

 アトランタ五輪代表を決めた池畑は「日本選手でいちばんメダルに近いのは自分だとわかっているけれども、自分にできることをまっとうしよう、とだけ考えています。年齢的にもいちばんいい時期で最後の五輪だから、結果はおのずとついてくると信じています」と、落ち着いた表情で話した。その時の世界記録はトータル305kgで、300kg挙げればアトランタでメダル圏内に入ると考えられていた。池畑はスナッチ135kgクリーン&ジャーク165kgを目標にした。

 その歩みは順調に見えた。5月11日に行なわれた日本代表壮行競技会では、体重オーバー(本来の階級よりも上)の64kg級に出場。スナッチ135kg、クリーン&ジャーク170kgを挙げて、トータル305kgの同級日本記録を出したのだ。コーチや監督は「本番では302.5kgから305kgを狙わせたい。そうすればメダルに届く」と期待を寄せた。

 だが、池畑は5月末に十二指腸潰瘍を患い、1週間入院。そのうち、5日間は点滴だけで食事をとれなかった。アトランタに来て池畑は「退院後練習はできている。コンディションは95%まで回復した」と話したが、状況は厳しかった。

 ウエイトリフティングでは、エントリー時に自己ベスト記録を申請する。それは公認記録でなく、練習で挙げた記録でもいい。その記録をもとに、出場選手をAとBのグループに分類する。Bグループが先に競技を行ない、その後にメダル候補が集まるAグループが競技をする。そのエントリーの自己ベストを、池畑は295kgで申告した。普通なら体重オーバーで出した305kgで申告するところだが、プレッシャーを避けるためにあえて下げたのだ。

 その作戦が裏目に出た。目論見では295kgでも上位10名のAグループに入るだろうと考えていたが、他の選手が高い記録を申告したために、池畑はBグループになってしまったのだ。有力選手が出てくるAグループなら状況を見て戦略も立てられるが、Bグループではそれができない。池畑は一気に不利な状況に追い込まれた。

 スナッチの最初の重量を125kgにした池畑は、2回目の130kgも上げると3回目は目標にしていた135kgではなく132.5kgにし、しっかり成功させた。桜井勝利監督は「彼のコンディションを考えると、行ってもトータル295kgだと思っていた。スナッチは132.5kgで手堅く取って、あとはクリーン&ジャークで勝負、という作戦だった」と言う。

 池畑は勝負をかけたクリーン&ジャークのスタート重量を157.5kgにしたが、Bグループはレベルが低いため、最初の選手は110kgから。池畑が1回目に挑戦する前に、他の9名の選手はすべて終わってしまっていた。

 ウエイトリフティングでは、名前をコールしてから試技を行うまで、他の選手が間にいれば1分以内。1人が連続してやる場合は2分以内、というルールがある。もしも、池畑がAグループに入っていたとすれば、彼が3回挑む重量に挑戦した選手が複数いたために、他の選手の試技の間に自分は休むことができ、時間的にも余裕を持って試技を行なうことが可能だった。だが、Bグループでは1人だけの挑戦のため、名前をコールされてから2分以内の実施を連続しなければいけなくなったのだ。

 そんな状況でも池畑は最初の重量をきれいに挙げると、次の162.5kgも成功。そして3回目には、「絶対に取ってこい」と言われた165kgをキッチリと挙げて競技を終えた。スナッチとクリーン&ジャーク、そしてトータルでは297.5kg。すべてこの階級の日本新記録だった。

「大会前の状態が万全ではなかったけれども、今回はとにかく6回すべてを挙げようと思っていました。6回の試技全部に成功したのは、高校時代に競技を始めてから10年間で初めてです。クリーン&ジャークの3回連続はつらかったですね。Aグループに入っていればもう少しラクにできたかもしれないけど、本当に疲れました。階段を降りるときに立ち眩みが残っているくらいでした」

 こう言って笑みを浮かべた池畑は、6回すべて成功して自己新。「これでメダルを獲れなかったら、それは仕方ないこと」とも言った。桜井監督は「Bグループでこの記録を出せたのだから、Aグループの選手に強烈なプレッシャーを与えられる」と期待した。

 だが、残念ながらメダルには届かなかった。得意のクリーン&ジャークの165kgはAグループを含めても3位だったが、トータルは1位の選手が世界新の307.5kgで、2位は305kg。3位は302.5kgで池畑は4位だった。3位になったペシャロフ(ブルガリア)はクリーン&ジャークで162.5kgを2回続けて失敗したが、3回目は連続試技を避けるために165kgに上げて成功していた。もし彼が3回連続で失敗していれば、池畑は3位に入れていた。Bグループでのこの結果は称賛に値するものだった。

「そりゃあ、4位より3位のほうがいいけど、欲をいったらキリがありません。4位に満足しています。でも、終わってしまうと欲も出てくるものだから……」

 彼にとってこの結果は、本当に力を出し尽くした価値のある4位だった。だが、競技終了後にも「五輪はこれが最初で最後と決めています」と話した池畑だったが、ウエイトリフティングの魅力から逃れられなかった。結局、00年シドニー五輪に30歳で出場した彼は、カテゴリー変更となった62㎏級でトータル300㎏を挙げて6位になり、連続入賞を果たしたのだった。

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