事故から23年、青木拓磨がル・マン参戦の夢をついに実現「1周1周、噛み締めながら走りました」【インサイドレポート】

2021年8月26日(木)10時36分 AUTOSPORT web

 車いすドライバー、青木拓磨の長年の夢が実現した。彼は1998年2月5日、2輪のテスト中の事故による脊髄損傷以来、車いす生活を余儀なくされている。事故後、青木が考えたことのひとつは、「2輪ができなければ4輪。できれば世界一のレースであるル・マン24時間レースに出たい」というモノだった。


 それから23年、ついにその夢を実現する時がきた。きっかけとなったのがフレデリック・ソーセとの出会いである。


 人喰いバクテリアによって四肢切断という障がいを負ったソーセは、2016年のル・マン24時間レースの特別出走枠で参戦の経験を持つが、そのプロジェクトの第2弾としてこの障がいをもったドライバーを集め、ル・マンに挑戦するというのが、ソーセが立ち上げたチームSRT41である。


 これに青木は合流し、他のメンバーとともに3か年計画でル・マンを目指してきた。ソーセ・レーシングチームがフランスのロワール=エ=シェール県ブロアが所在地となったことから、その県番号「41」を取りSRT41という名称となっている。


■LMP2マシン採用で増したフィジカルへの負荷


 2018年には、フランス国内で行われる耐久レース『VdeV(ベドゥベ)耐久選手権』に参戦(5戦中3度の表彰台を獲得)。2019年シーズンはステップアップし欧州で開催されている『UltimateCUP(ウルティメイトカップ)』シリーズに参戦し、ル・マン24時間レースへの参戦を目指すチームが挑戦するステップアップ・カテゴリーのレースである『ロード・トゥ・ルマン(RTLM)』にも参戦。このRTLMでは、レース1は36位、レース2は39位で完走している。


 ここまではLMP3のリジェJS P3を使用していたが、このル・マン本戦に出場するにはLMP2マシンでなければならないことから、SRT41はGRAFF(グラフ)とのタッグを組んでこの参戦を進めてきた。


 本来の計画である2020年は、新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、事前のLMP2マシンへの慣れやチームとの準備ができないことから参戦を断念。2021年の同大会への参戦に計画を変更し、今季はELMSヨーロピアン・ルマン・シリーズにスポット参戦をし、この本戦のための準備をしてきた。


 このプロジェクトには3年前から、青木拓磨以外に、フランス人のスヌーシー・ベン・ムーサ(左腕切断)、ベルギー人のナイジェル・ベイリー(下半身不随)という3人のドライバーが合流しのメンバーでル・マンを目指してきた。


 だがスヌーシーはRTLM参戦後にチームから離脱したため、チームは健常者ドライバーをひとり立てることとなった。このドライバー枠には、事前のELMSにはピエール・サンシネナが参戦(当初はル・マン戦のリザーブドライバーとして登録を考えていたのだが、本戦未出場のドライバーの登録は出来なかったためこれを断念)、そして本戦にはフランソワ・エリオを予定していたものの、直前に事故を起こして参戦ができなくなり、リザーブドライバー登録していたマチュー・ライエがこの本戦に参戦することとなった。


 SRT41はオレカ07・ギブソンをベースにハンドドライブ仕様の車両を使用することで、以前は“ガレージ56”と呼ばれていた“イノベーティブカー・クラス”への参戦となっている。

アソシエーションSRT41の84号車オレカ07・ギブソン


 通常両手両足で操作することを、上腕2本で操作することになる。具体的にはステアリングのパドル操作で、アクセル、シフトアップ、クラッチの操作をする。ブレーキ操作およびシフトダウンはシート右側に設けられたレバーを使用。ただ、上腕での操作では足の踏力ほど力を発揮できないため、ブレーキを強く掛けられないというハンドドライブ機構の煮詰めが足りないところもある。


 このフィジカル的にもきついLMP2マシン、そして特有のブレーキ操作に対応するため、青木とベイリーはともに身体を作ってきていた。体重を落とし、さらに上腕を鍛えており、両名ともにがっしりとした印象に変わっていた。狭いLMP2のコクピットでの操作のため、できれば身体を大きくしないようにしたいところだが……。なお、この手動装置のため車両重量増は約20㎏にも及ぶ。


 車両横まで車いすで移動してドライバー交替を行うことから、ドライバー交替はピット内での作業が義務付けられた。そのためLMP2マシンをベースとしているもののほかのLMP2マシンよりも多くピット時間を割かなければならないといったハンデも生じていた。




■チェッカードライバーを務めた青木が喝采を浴びる


 オープニングセレモニー中の通り雨によって、路面が完全にウエットになるほど雨が降り、スタート直前には雨が止むという、まさかの展開からスタートした89回目のル・マン24時間レース。レース序盤は、追突やスピンが頻発する荒れたものとなった。

スターティンググリッド、チームWRT41号車をドライブするロバート・クビサと話をする青木拓磨(左)、ナイジェル・ベイリー(右)

青木拓磨と、トヨタGAZOO Racingの小林可夢偉


 28番グリッドからスタートのプロジェクトSRT41の84号車は、チーム内の健常者ドライバーであるライエがスタートドライバーを務め、この序盤の難しい路面コンディションの中をミスなく車両を進めていく。


 燃費の関係で10〜11周に1回の給油のピットインが必要だが、ライエが3スティントを終えたところで、青木へとドライバー交替をして、自身初のル・マン24時間レースを戦うこととなった。ソーセに次ぐ2人目の車いすドライバーとして、このル・マン24時間レースに参戦したことになる。天候が不安定なタイミングでの走行でスピンを喫したものの、マシンを壊すことなくその後は安定した走行を進めていった。


 84号車は序盤に順位を落としこそしたものの順調に走行を進め、順位を徐々に上げていくことに成功。当初はライエにより多くの走行を分担する作戦が取られていたが、最終的には334周、総合32位でこの24時間レースを走り切った。


 ちなみにピット内でのドライバー交替のため、マシンがピット内に入っている時間は2分から長い時で3分を超える。通常のピットロード上でのドライバー交替&タイヤ交換を30秒とカウントしてもピット1回あたり2分前後のディスアドバンテージだ。


 今回84号車は13回のドライバー交替を行なったことから、あと7周分(平均ラップタイムを3分45秒と計算)を走れるほどの速さを持っていたと考えられる(その場合の順位は25位あたりになるだろう)ことを加えておく。

ガレージ内でマシンに乗り込む直前の青木。サイドポンツーン脇までは、車いすで移動する


 チェッカードライバーとして最終スティントを担当した青木が、無事にホームストレートにマシンを止め、スタッフの手を借りて車両から降りた際には、会場からは非常に大きな歓声と拍手が贈られた。


 レース後、青木拓磨はこう語った。


「最初は、路面が濡れていたり、砂利が出ててダスティだったりしてコースを確認する必要があったりしたためペースが上げられなかったですが、周回を重ねていくたびに、ペースも上げることができました」


「夜のスティントもしっかりアタックして走ることができました。5回乗ることになりましたが、日の入り・日の出のタイミングも最後のチェッカーのタイミングも走らせてもらって、この1年に1回しか走ることができない神聖なるサルト・サーキットを、ほんとうに1周1周噛み締めながら走りました」


「ここに来させていただくことができたのは多くの皆さんの協力や支えがあったからです。感謝したいと思います。これで、僕が事故をしてからずっと24年間持ち続けてきたひとつの夢が叶いました。次の目標は、またこのサルト・サーキットに戻ってくることです!」

スタートから24時間後、青木が最終ドライバーとなりチェッカーを受けた

レース後、表彰式をバックに


■「妨害しようとする嫉妬深い馬鹿者たちもいた」とソーセ代表


 足かけ4年にわたる挑戦はこれでゴールを迎えたことになる。このプロジェクトをまとめてきたソーセ代表は「まず第一に、SRT41ファミリーみんなにありがとうと言いたい。我々は2016年に続き、再びモータースポーツの世界に新しいページを刻み、歴史を作った。支持してくれた人たちには心から感謝する」とコメントしている。


「このチャレンジがうまくいくと信じていた人は少なかったし、このチャレンジを妨害しようとする嫉妬深い馬鹿者たちもいた。それでも我々はこれを成し遂げ、大満足の結果になった! また、こんな感動的な瞬間をチームのみんなと共有できることを願っている!」


 誰もが諸手を挙げて迎え入れてくれたわけではなく、資金面でもコロナ禍で本業が厳しくなっている中でソーセ氏自身が多くの私財を投げうっての参戦だった。ここまでの道のりは険しかったことを知る者も多い。ミッションSRT41が、今後のモータースポーツ業界に一石を投じた意味は大きい。

アソシエーションSRT41のチーム集合写真。前列左から青木、ライエ、ソーセ代表、サンシエナ、ベイリー

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