秋山幸二が語る西武の黄金期「『必勝法・必敗法』という冊子があった」

9月9日(月)6時57分 Sportiva

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(33)

【背番号1】西武・秋山幸二 前編

 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ——。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く好評連載を再開する。

 第9回のテーマは、「背番号1」。連載の17人目、西武・秋山幸二のインタビューをお届けしよう。


黄金期の西武で「AKD」と呼ばれた、(左から)秋山、清原、デストラーデ photo by Sankei Visual

【西武のほうがずっと早く「データ野球」を取り入れていた】

——1992(平成4)年、翌1993年に行なわれたスワローズとの日本シリーズについて、みなさんにお話を伺っています。

秋山 うーん、あんまり覚えていないんだよね(笑)。森(祇晶)さんと、野村(克也)さんの2年間ですよね。1992年はうちが勝って、1993年はヤクルトが勝ったんだよね? 選手っていうのは自分が活躍した時のことは覚えているけど、あまり活躍しなかった時のことは覚えていないんですよ。

——でも、1992年のシリーズでは優秀選手賞を獲得し、翌1993年のシリーズでは3本のホームランを打っていますよ(笑)。

秋山 えっ、そうなの? (記録を見ながら)全然覚えていないや(笑)。1992年の日本シリーズは野村さんの何年目でしたっけ?

——スワローズ・野村監督は1990年の就任でしたから、1992年は3年目になります。

秋山 あの頃のヤクルトはキャッチャーの古田(敦也)を中心に、岡林(洋一)、西村(龍次)、川崎(憲次郎)とか、いい投手陣がそろっていた。あと、打撃陣ではブンブン丸(池山隆寛)、広沢克己(広澤克実)が中心となって引っ張っていって、バランスがとれていたチームだった気がします。監督がともにキャッチャー出身者同士で、細かい野球をやっていましたよね。

——戦前には、森、野村両監督を称して「キツネとタヌキの化かし合い」とも言われていました。この連載に登場した石毛宏典さんは、「野村さんのID野球ばかり注目されていたけど、うちだってデータに基づいた細かい野球をやっていた」と言っていました。両チームはやはり、似ていたのでしょうか?

秋山 両チームともに細かい野球をやっていたのは間違いないですね。石毛さんの言うように、うちだってヤクルトよりも早くデータ野球はやっていました。広岡(達朗)さんの頃からずっとバント守備、けん制でのサインプレー、1球ごとの守備位置の変更などを徹底していたし、当時は「必勝法・必敗法」という冊子があって細かい野球を学ばせられたし、ミーティングもいっぱいやっていましたから。チームとしては似ていたと思うけど、野村さんよりもずっと早く、西武はそういう野球をやっていたと思いますよ。

【「西武のON」を目指して背番号1に】

——この連載で共通しているのは、スワローズOBは一様に「ライオンズに勝てるとは思っていなかった」と話すのに対して、ライオンズ関係者は「シリーズを楽しんでいた」と語っていることです。秋山さんはいかがですか?

秋山 ペナント開幕前には、パ・リーグではうちが勝つ前提で「セ・リーグはどこが(日本シリーズに)出てくるのかな?」という思いは持っていたと思いますよ。それに、何度も日本シリーズに出場して”シリーズ慣れ”していたこともあって、みんな楽しんでいた部分も大きかったんじゃないかな? たぶん他の選手もそうだと思うけど、僕の場合は「どうやってアピールしようか?」とか、「MVPを獲りたい。優秀選手賞がほしい」という思いで、楽しくやっていた感じはします。

——スワローズサイドでは、広澤さんなども「シリーズ初戦は震えが止まらなかった」とおっしゃっていましたが、それとは対照的ですね。

秋山 もちろん、西武の選手だって最初はそうでしたよ。でも、それがだんだん慣れていくんです。そうして、「日本一」に対しての思い入れが強くなっていったし、緊張するよりも先に「どうやって目立とうか、どうやって賞を獲ろうか」というところに意識が向いていったんだと思います。むしろ、シリーズよりも普段のペナントレースのほうが、危機感がありましたから。

——当時のライオンズではチーム内の競争も激しかったそうですね。

秋山 当時の西武の選手はみんな常に危機感を持ちながらプレーしていたと思います。もちろん、僕だってそうです。ケガで休んだらすぐにポジションを奪われるという危機感があったし、たとえば試合前にテーピングをしていると、石毛さんが「おい秋山、その程度のケガでまさか休まないよな?」なんて言われていましたから。だから僕も、石毛さんがどこかを痛めても、「もちろん試合には出ますよね?」「当然、出るよ!」なんて会話を普通にしていましたね(笑)。

——当時、スワローズの背番号1は池山隆寛選手でした。秋山さんは自身の背番号1に対して、どのような思い入れがありましたか?

秋山 僕は背番号1に、そんなに強い思い入れがあったわけではないんですよね。最初は背番号71で入団して、24になってから試合に出られるようになって活躍したから、むしろ背番号24に愛着があったんです。でも、清原(和博)が入団してすぐに背番号3で活躍したことによって、「西武にもONを作ろう」ということになったんです。

——背番号1の王貞治、背番号3の長嶋茂雄の「ON」に対抗する形で、西武球団としては「AK(秋山・清原)」を売り出そうとしたわけですか。

秋山 そうそう。背番号1は自ら望んだわけじゃなくて、球団のほうから「背番号1でどうか?」って打診されたわけだから。最初は悩んだけど、周囲の勧めもあって1をつけることにしたんです。でも、王さんの背負った背番号1と僕の背番号1とでは、あまりにも違いすぎて特に意識はしなかったですけどね。

【普段はバラバラでも、試合になると一気に集中する】


当時を振り返る秋山氏 photo by Hasegawa Shoichi

——秋山さんと清原さんとのコンビは「AK砲」と呼ばれました。また、そこに(オレステス・)デストラーデ選手を加えて「AKD」とも呼ばれていました。当時の3人の役割はどのようなものだったのですか?

秋山 「役割」というのは監督が考えることなので、とくに自分の役割を意識したことはなかったです。長打を求められる場面、走者を進める場面などに応じて、野球をしていました。ただ、僕の場合は「足を見せたい」という思いは強かったですね。四番・清原、五番・デストラーデが自分の仕事をしてくれるので、ほとんどの場合が(三番の)自分と勝負してくれるのはありがたかったですよ。

——秋山さんが走者として出塁している時には、どのような意識を持っていましたか?

秋山 キヨ(清原)の場合は、ファーストストライクが来るまでは絶対に打たなかったですね。だから、なるべく早いカウントで盗塁をすることを心がけていました。当時の西武は、僕に限らずみんなが自分の役割をきちんと理解していましたよ。みんなそれぞれに役割があって、「この場面は何をしなければいけないか」ということをみんなが理解していた。そんなチームだったと思います。プライベートではみんなバラバラなんだけど、いざ試合になるとパッと集中する。そんな感じでしたね。

——あらためて1992年、1993年について伺いますが、当時の秋山さんはプロ12年目の30歳、13年目31歳という、まさに脂の乗り切った時期にありましたね。

秋山 いやいや、ずっと試行錯誤していた時期ですよ。「もっといい打ち方があるんじゃないか?」「もっといい方法があるんじゃないか?」って考えていたと思います。年齢と共に筋肉も変化していくわけだし、常に試行錯誤していました。(1992年シリーズの映像を見ながら)ほら、”当時の秋山さん”の打ち方だって、”今の秋山さん”から見れば課題が多い打ち方ですから、まだまだだよね(笑)。

(後編に続く)

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