浦和レッズとパラアスリートの偶然かつ必然の出会い…“サッカーのまち”さいたまでつながる2つのサッカー
2019年10月12日(土)11時59分 サッカーキング
4年前の2015年、浦和レッズの平川忠亮(現・浦和レッズコーチ)は、練習中にボールが至近距離から顔に強く当たり、半日ほど両目が見えなくなるという体験をした。この体験がきっかけとなり、視覚に障がいのある人たちを支援したいという気持ちが彼の中に芽生え始める。しばらくして平川は知人を介し、ブラインドサッカーチームの埼玉T.Wingsでキャプテンを務める、ブラインドサッカー日本代表の加藤健人と出会った。
加藤は1985年、福島県に生まれた。小学校3年生でサッカーを始め、Jリーガーになりたいという夢をいつしか抱いていた。5、6年生のときには福島市のトレセン入りを果たし、中学のサッカー部ではキャプテンを務め、伊達市の強豪、聖光学院高校サッカー部に入部する。
そして高校2年生から3年生になる春休みのある日、眼科で視力検査を受ける機会があり、片方の目の視力がほとんどないことを告げられた。人には手や足と同じように「利き目」があるため、もう片方の目の視力が低下しているという自覚が全くなかったという。その後、福島県立医科大学でも検査をしたところ、遺伝性のレーベル病という病を発症していることが判明する。利き目の視力もいずれなくなるかもしれず、現代医学での治癒は難しいという診断を受けた。
「視覚に障がいを持った方や相談できる人もいなかったので、これからどうなるんだろうと。サッカーだけでなく、学校生活や日常生活にも大きな不安を感じました」
やがて医師が診断したとおり、もう片方の目の視力が落ちていき、日常生活にも支障が出始め、高校も休みがちになっていく。
「黒板や教科書の文字も見えなくなっていったのですが、なかなか友達にも言いにくくて。それまでは学校を休むことなんてなかったんですけど……」
なんとか高校は卒業したが、視力の低下に伴い、一人で外出することができなくなり、家にこもる時間が増えていく。高校時代の友達が家に遊びにきてくれることもあったが、「これから先、自分には何もできないんじゃないか」と不安ばかりが募った。
しかし、加藤の両親は諦めていなかった。息子にもできることが何かあるはずだと必死に情報を集めていたある日、インターネットでブラインドサッカーという文字が目に留まった。
自分を必要としてくれる人がいて始めたブラインドサッカー
加藤がブラインドサッカーの存在を知った15年前は、日本ブラインドサッカー協会も設立から2年しかたっておらず、全国で5チームほどしか活動していなかった。
「ブラインドサッカーと言われても、漠然としたイメージしかなかった」が、福島から一番近くにあった茨城県つくば市のチームに連絡を入れて、父親と2人で見学に行った。高校を卒業してから約半年がたっていた。
「自分には何もできないんじゃないかとか、自分なんて必要ないんじゃないかとか、死にたいと言ったら大げさになってしまうけど、この先どうしたらいいのか本当に悩んでいました。ブラインドサッカーと出会ったときは、自分がそれまでやってきたサッカーとは違うなと思いながらも、たまたまそのチームには同年代の選手が多くて楽しそうな印象を受けました」
見学を終えた加藤は、その場でスタッフから、チームに入らないかと誘われた。
「今思うと、その頃はブラインドサッカーをやっている人が非常に少なかったので、スタッフの方が見学に来た僕をチームに誘うのは、むしろ当たり前だったのかなと思います。でも、そのときの僕にとっては、誘ってもらえたことがとてもうれしかった。一緒にやってもいいんだ、自分を必要としてくれる人がいるんだと思えました」
高校卒業から1年後、加藤は筑波技術短期大学(現・筑波技術大学)に入学する。視覚障がい者・聴覚障がい者のための大学で勉強をしながら、チームに所属してブラインドサッカーにのめり込んでいく。
「ずっとサッカーをやってきたので、ボールが足元にあれば蹴ることはできたんですけど、一番難しかったのはトラップでした。シャカシャカ鳴るボールの音だけでタイミングや距離感を聞き分けないといけないので、ちょっとしたずれでもうまくトラップができないんです。見えていたら簡単なのになという葛藤はすごくありました。でも、もともと負けず嫌いですし、その頃にはブラインドサッカーが自分の中で大きいものになっていたので、諦められないなと思って練習を重ねました」
その一方で、サッカースタジアムからは足が遠のいていた。高校3年生のとき、視力の低下が進む中、父親と2人で埼玉スタジアムに日本代表の試合を見に行ったが、それを最後にスタジアムには行かなくなっていた。
「やっぱり“見る”ということに対しての違和感というか、ちょっと嫌になっていました。行っても楽しめないんじゃないかと思って」
偶然がもたらした浦和レッズ平川忠亮との出会い
つくば市で暮らし始めて3年目の2007年、加藤は埼玉T.Wingsに加入する。当時は月に2、3回、埼玉県所沢市まで通って練習に参加していた。
3年間の大学生活を終えた後は、勤務先のある東京に住んでいたが、2014年に埼玉県内に引っ越し、その翌年に結婚もした。
「僕はT.Wingsに入るまで埼玉にはゆかりがなかったんです。福島県出身ですし、勤務先も住んでいたのも東京でした。でも、埼玉に住んで、埼玉のチームと日本代表でブラインドサッカーをしたほうが、より活動しやすいですし、たくさんの人に知ってもらえると思いました」
埼玉に居を構えてブラインドサッカーの活動を広げていく中で、浦和レッズと一緒に何かをやりたいとは思っていたが、なんとなく気後れしてしまい、その一歩を踏み出せずにいた。
2015年のある日、転機が訪れる。浦和レッズのクラブスタッフから埼玉T.Wingsに一本の連絡が入る。それは見学の問い合わせだった。体験会当日、浦和レッズの平川がクラブスタッフと一緒に姿を見せ、当初は見学するだけの予定だったが、埼玉T.Wingsのメンバーに勧められてブラインドサッカーを体験した。そこから加藤と平川の交流が始まった。
平川からは「何かサポートできることがあれば言ってほしい」という言葉を掛けられた。当時、埼玉T.Wingsには練習拠点がなく、フットサル場や学校の校庭などを転々としていたため、加藤が平川にその悩みを相談したところ、武蔵浦和にあるフットサル場を定期的に無償で使用できるようになった。
翌2016年には、もっとブラインドサッカーを知ってもらうために、浦和レッズと埼玉T.Wingsが一緒にできることを考えようと、平川やクラブスタッフを交えて検討した結果、浦和レッズのトレーニンググラウンドである大原サッカー場でブラインドサッカー体験会を実施することになった。浦和レッズのファン・サポーターや埼玉県内の盲学校に通う子どもたち、そしてトップチームからは平川のほか、阿部勇樹、武藤雄樹、岩舘直ら計6選手が体験会に参加した。
「試合の翌日にもかかわらず、いろんな選手が参加してくれてうれしかったですね」
一度は諦めかけていた浦和レッズとの活動が、ついに実現した瞬間だった。
応援したいチームがある。だから今はスタジアムに行く意味がある
2016年、加藤は久しぶりに埼玉スタジアムを訪れる。かつて父親と来たときとは全く異なる雰囲気を感じ取っていた。
「浦和レッズといったらやっぱりサポーターの声。僕は視覚に障がいがあるので、試合を“見る”という感じではないんですが、やっぱり応援したいなと思って」と笑みをこぼす。
最初の頃はメインスタンドに座っていたが、ゴール裏の声量や手拍子に魅了され、今ではスタジアムを訪れるとゴール裏で応援している。
「性別や年齢も関係なく、自分の声が聞こえないくらいみんなが大きな声を出していて、これはすごい、本物だなと思いました」
ゴール裏では隣の人が試合の状況を説明してくれる。そこで親しくなった仲間たちとみんなで食事に行ったり、彼らがブラインドサッカーの体験会や試合の応援に来てくれたり、どんどん交流が広がっていった。
「一緒に応援してくれる人がいて、そして浦和レッズという応援したいチームがあるので、たとえ見えていなくてもスタジアムに行く意味があります」
埼玉T.Wingsは平川のサポートを受けて、同じ場所で定期的に練習を行えるようになり、試合ではその成果が徐々に表れていた。しかし、練習で使用していたフットサル場は、正規のコートサイズとは異なるため、どうしても練習時と試合時とで微妙な感覚のずれが生じてしまう。平川のサポートにより、以前に比べると練習の環境は格段に良くなっていたが、加藤はしばらく思い悩んだ末に、浦和レッズのクラブスタッフに相談したところ、レッズランドの無償貸し出しという願ってもない提案があった。そして2018年、埼玉T.Wingsは活動の拠点をレッズランドに移し、現在は試合と同じ大きさのコートで練習を実施している。
「練習しやすくて場所も広々としていますし、周りでサッカーやフットサルをしている人たちも見てくれるので、ブラインドサッカーを多くの方に知っていただけるという意味でもレッズランドはとてもいいですね」
レッズランドではチーム練習を行うだけではない。昨年実施した体験会には一般参加者の他に、浦和レッズレディースのユースとジュニアユースに所属する選手たちも加わった。その後も体験会はレッズランドで定期的に行われ、現在は埼玉T.Wingsのユニフォームの右袖にレッズランドのロゴが入るようになった。ユニフォームを新しくする際に、埼玉T.Wingsから浦和レッズに申し出て実現したという。レッズランドと埼玉T.Wingsの絆はより一層深くなっている。
ブラインドサッカーの活動に適した“サッカーのまち”さいたま
ブラインドサッカーは視覚障がい者と健常者が力を合わせてプレーするスポーツだ。音と声を頼りにコミュニケーションを取ることが欠かせない。そのため加藤は、多くの人に支えられて困難を乗り越えてきた実体験を元に、スポーツに関わる人たちへの恩返しの気持ちも込めて、コミュニケーションの大切さを広く伝え、人と人、人と地域をつなぐきっかけを自身がつくっていきたいと強く感じている。
「やっぱりさいたまは“サッカーのまち”ですし、さいたま市は全国の政令指定都市に先駆けて『ノーマライゼーション条例』(誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例)を制定しています。障がいがある・なしに関係なく暮らせるまちで、浦和レッズを中心にしたサッカー熱がすごく高いまち。両方の意味で、さいたまはブラインドサッカーに適している場所だと思います」
7月7日、埼玉T.Wingsはブラインドサッカー日本選手権で初優勝を果たし、日本一に輝いた。加藤は試合後にドーピング検査を受けたため、他の選手よりも遅い時間に会場を後にした。そのため祝勝会は行わず、チームはその日、おとなしく解散することになった。
妻と一緒に浦和に戻った加藤は、「そのまま家に帰るのもあれだな」と思い、なじみの店に足を運んだ。すると、その店で偶然、平川が食事をしていた。
「その場でメダルを見せて報告できてよかったです。優勝したことをとても喜んでくれました」
レッズランドで練習をするときもあれば、埼玉スタジアムで浦和レッズを応援することもある。大原サッカー場や浦和駒場スタジアムでは、ブラインドサッカー体験会を通じて、選手やファン・サポーターと交流を深める——。加藤にとってすべてが特別な時間であり、誰もが大切な仲間だ。そこに隔たりのようなものは何もない。
“サッカーのまち”さいたまで、平川と加藤が偶然出会い、浦和レッズと埼玉T.Wingsの交流が始まったのは、必然的な巡り合わせだったのかもしれない。今日も“サッカーのまち”のどこかで、サッカーを通じた新たなつながりが生まれている。
加藤は1985年、福島県に生まれた。小学校3年生でサッカーを始め、Jリーガーになりたいという夢をいつしか抱いていた。5、6年生のときには福島市のトレセン入りを果たし、中学のサッカー部ではキャプテンを務め、伊達市の強豪、聖光学院高校サッカー部に入部する。
そして高校2年生から3年生になる春休みのある日、眼科で視力検査を受ける機会があり、片方の目の視力がほとんどないことを告げられた。人には手や足と同じように「利き目」があるため、もう片方の目の視力が低下しているという自覚が全くなかったという。その後、福島県立医科大学でも検査をしたところ、遺伝性のレーベル病という病を発症していることが判明する。利き目の視力もいずれなくなるかもしれず、現代医学での治癒は難しいという診断を受けた。
「視覚に障がいを持った方や相談できる人もいなかったので、これからどうなるんだろうと。サッカーだけでなく、学校生活や日常生活にも大きな不安を感じました」
やがて医師が診断したとおり、もう片方の目の視力が落ちていき、日常生活にも支障が出始め、高校も休みがちになっていく。
「黒板や教科書の文字も見えなくなっていったのですが、なかなか友達にも言いにくくて。それまでは学校を休むことなんてなかったんですけど……」
なんとか高校は卒業したが、視力の低下に伴い、一人で外出することができなくなり、家にこもる時間が増えていく。高校時代の友達が家に遊びにきてくれることもあったが、「これから先、自分には何もできないんじゃないか」と不安ばかりが募った。
しかし、加藤の両親は諦めていなかった。息子にもできることが何かあるはずだと必死に情報を集めていたある日、インターネットでブラインドサッカーという文字が目に留まった。
自分を必要としてくれる人がいて始めたブラインドサッカー
加藤がブラインドサッカーの存在を知った15年前は、日本ブラインドサッカー協会も設立から2年しかたっておらず、全国で5チームほどしか活動していなかった。
「ブラインドサッカーと言われても、漠然としたイメージしかなかった」が、福島から一番近くにあった茨城県つくば市のチームに連絡を入れて、父親と2人で見学に行った。高校を卒業してから約半年がたっていた。
「自分には何もできないんじゃないかとか、自分なんて必要ないんじゃないかとか、死にたいと言ったら大げさになってしまうけど、この先どうしたらいいのか本当に悩んでいました。ブラインドサッカーと出会ったときは、自分がそれまでやってきたサッカーとは違うなと思いながらも、たまたまそのチームには同年代の選手が多くて楽しそうな印象を受けました」
見学を終えた加藤は、その場でスタッフから、チームに入らないかと誘われた。
「今思うと、その頃はブラインドサッカーをやっている人が非常に少なかったので、スタッフの方が見学に来た僕をチームに誘うのは、むしろ当たり前だったのかなと思います。でも、そのときの僕にとっては、誘ってもらえたことがとてもうれしかった。一緒にやってもいいんだ、自分を必要としてくれる人がいるんだと思えました」
高校卒業から1年後、加藤は筑波技術短期大学(現・筑波技術大学)に入学する。視覚障がい者・聴覚障がい者のための大学で勉強をしながら、チームに所属してブラインドサッカーにのめり込んでいく。
「ずっとサッカーをやってきたので、ボールが足元にあれば蹴ることはできたんですけど、一番難しかったのはトラップでした。シャカシャカ鳴るボールの音だけでタイミングや距離感を聞き分けないといけないので、ちょっとしたずれでもうまくトラップができないんです。見えていたら簡単なのになという葛藤はすごくありました。でも、もともと負けず嫌いですし、その頃にはブラインドサッカーが自分の中で大きいものになっていたので、諦められないなと思って練習を重ねました」
その一方で、サッカースタジアムからは足が遠のいていた。高校3年生のとき、視力の低下が進む中、父親と2人で埼玉スタジアムに日本代表の試合を見に行ったが、それを最後にスタジアムには行かなくなっていた。
「やっぱり“見る”ということに対しての違和感というか、ちょっと嫌になっていました。行っても楽しめないんじゃないかと思って」
偶然がもたらした浦和レッズ平川忠亮との出会い
つくば市で暮らし始めて3年目の2007年、加藤は埼玉T.Wingsに加入する。当時は月に2、3回、埼玉県所沢市まで通って練習に参加していた。
3年間の大学生活を終えた後は、勤務先のある東京に住んでいたが、2014年に埼玉県内に引っ越し、その翌年に結婚もした。
「僕はT.Wingsに入るまで埼玉にはゆかりがなかったんです。福島県出身ですし、勤務先も住んでいたのも東京でした。でも、埼玉に住んで、埼玉のチームと日本代表でブラインドサッカーをしたほうが、より活動しやすいですし、たくさんの人に知ってもらえると思いました」
埼玉に居を構えてブラインドサッカーの活動を広げていく中で、浦和レッズと一緒に何かをやりたいとは思っていたが、なんとなく気後れしてしまい、その一歩を踏み出せずにいた。
2015年のある日、転機が訪れる。浦和レッズのクラブスタッフから埼玉T.Wingsに一本の連絡が入る。それは見学の問い合わせだった。体験会当日、浦和レッズの平川がクラブスタッフと一緒に姿を見せ、当初は見学するだけの予定だったが、埼玉T.Wingsのメンバーに勧められてブラインドサッカーを体験した。そこから加藤と平川の交流が始まった。
平川からは「何かサポートできることがあれば言ってほしい」という言葉を掛けられた。当時、埼玉T.Wingsには練習拠点がなく、フットサル場や学校の校庭などを転々としていたため、加藤が平川にその悩みを相談したところ、武蔵浦和にあるフットサル場を定期的に無償で使用できるようになった。
翌2016年には、もっとブラインドサッカーを知ってもらうために、浦和レッズと埼玉T.Wingsが一緒にできることを考えようと、平川やクラブスタッフを交えて検討した結果、浦和レッズのトレーニンググラウンドである大原サッカー場でブラインドサッカー体験会を実施することになった。浦和レッズのファン・サポーターや埼玉県内の盲学校に通う子どもたち、そしてトップチームからは平川のほか、阿部勇樹、武藤雄樹、岩舘直ら計6選手が体験会に参加した。
「試合の翌日にもかかわらず、いろんな選手が参加してくれてうれしかったですね」
一度は諦めかけていた浦和レッズとの活動が、ついに実現した瞬間だった。
応援したいチームがある。だから今はスタジアムに行く意味がある
2016年、加藤は久しぶりに埼玉スタジアムを訪れる。かつて父親と来たときとは全く異なる雰囲気を感じ取っていた。
「浦和レッズといったらやっぱりサポーターの声。僕は視覚に障がいがあるので、試合を“見る”という感じではないんですが、やっぱり応援したいなと思って」と笑みをこぼす。
最初の頃はメインスタンドに座っていたが、ゴール裏の声量や手拍子に魅了され、今ではスタジアムを訪れるとゴール裏で応援している。
「性別や年齢も関係なく、自分の声が聞こえないくらいみんなが大きな声を出していて、これはすごい、本物だなと思いました」
ゴール裏では隣の人が試合の状況を説明してくれる。そこで親しくなった仲間たちとみんなで食事に行ったり、彼らがブラインドサッカーの体験会や試合の応援に来てくれたり、どんどん交流が広がっていった。
「一緒に応援してくれる人がいて、そして浦和レッズという応援したいチームがあるので、たとえ見えていなくてもスタジアムに行く意味があります」
埼玉T.Wingsは平川のサポートを受けて、同じ場所で定期的に練習を行えるようになり、試合ではその成果が徐々に表れていた。しかし、練習で使用していたフットサル場は、正規のコートサイズとは異なるため、どうしても練習時と試合時とで微妙な感覚のずれが生じてしまう。平川のサポートにより、以前に比べると練習の環境は格段に良くなっていたが、加藤はしばらく思い悩んだ末に、浦和レッズのクラブスタッフに相談したところ、レッズランドの無償貸し出しという願ってもない提案があった。そして2018年、埼玉T.Wingsは活動の拠点をレッズランドに移し、現在は試合と同じ大きさのコートで練習を実施している。
「練習しやすくて場所も広々としていますし、周りでサッカーやフットサルをしている人たちも見てくれるので、ブラインドサッカーを多くの方に知っていただけるという意味でもレッズランドはとてもいいですね」
レッズランドではチーム練習を行うだけではない。昨年実施した体験会には一般参加者の他に、浦和レッズレディースのユースとジュニアユースに所属する選手たちも加わった。その後も体験会はレッズランドで定期的に行われ、現在は埼玉T.Wingsのユニフォームの右袖にレッズランドのロゴが入るようになった。ユニフォームを新しくする際に、埼玉T.Wingsから浦和レッズに申し出て実現したという。レッズランドと埼玉T.Wingsの絆はより一層深くなっている。
ブラインドサッカーの活動に適した“サッカーのまち”さいたま
ブラインドサッカーは視覚障がい者と健常者が力を合わせてプレーするスポーツだ。音と声を頼りにコミュニケーションを取ることが欠かせない。そのため加藤は、多くの人に支えられて困難を乗り越えてきた実体験を元に、スポーツに関わる人たちへの恩返しの気持ちも込めて、コミュニケーションの大切さを広く伝え、人と人、人と地域をつなぐきっかけを自身がつくっていきたいと強く感じている。
「やっぱりさいたまは“サッカーのまち”ですし、さいたま市は全国の政令指定都市に先駆けて『ノーマライゼーション条例』(誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例)を制定しています。障がいがある・なしに関係なく暮らせるまちで、浦和レッズを中心にしたサッカー熱がすごく高いまち。両方の意味で、さいたまはブラインドサッカーに適している場所だと思います」
7月7日、埼玉T.Wingsはブラインドサッカー日本選手権で初優勝を果たし、日本一に輝いた。加藤は試合後にドーピング検査を受けたため、他の選手よりも遅い時間に会場を後にした。そのため祝勝会は行わず、チームはその日、おとなしく解散することになった。
妻と一緒に浦和に戻った加藤は、「そのまま家に帰るのもあれだな」と思い、なじみの店に足を運んだ。すると、その店で偶然、平川が食事をしていた。
「その場でメダルを見せて報告できてよかったです。優勝したことをとても喜んでくれました」
レッズランドで練習をするときもあれば、埼玉スタジアムで浦和レッズを応援することもある。大原サッカー場や浦和駒場スタジアムでは、ブラインドサッカー体験会を通じて、選手やファン・サポーターと交流を深める——。加藤にとってすべてが特別な時間であり、誰もが大切な仲間だ。そこに隔たりのようなものは何もない。
“サッカーのまち”さいたまで、平川と加藤が偶然出会い、浦和レッズと埼玉T.Wingsの交流が始まったのは、必然的な巡り合わせだったのかもしれない。今日も“サッカーのまち”のどこかで、サッカーを通じた新たなつながりが生まれている。