ドーピング問題で欠場選手も出たリオ五輪。三宅宏実の銅メダルの価値

10月12日(月)11時0分 Sportiva

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スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。 
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2016年リオ五輪ウエイトリフティング女子48㎏級で、苦境から挽回し銅メダルを獲得した三宅宏実
 2016年8月のリオデジャネイロ五輪、開会式の翌日に行なわれたウエイトリフティング女子48㎏級。前回ロンドン五輪の銀メダルに続く、2大会連続メダルを狙う三宅宏実は、最初のスナッチでいきなり窮地に追い込まれた。スタート重量を出場12選手中7番目の81㎏に設定したが、1回目と2回目を連続で失敗してしまったのだ。
「ウォーミングアップで80㎏まで触って81㎏からいったものの、ステージに立つとぜんぜん取れるような重さではなかった。『これはちょっとまずい』と思って2本目は思い切りやろうとしたけどダメだった。スタートを81㎏まで落としたのは久しぶりだったので、緊張感に襲われて不安になっていました」
 次で挙げられなければ、記録なしで三宅のリオ五輪は終了する。加えて、三宅と同じ重量に挑戦する選手は1回目で成功したもう1人だけだったため、2回目から3回目は連続の試技になり、名前をコールされてから2分以内に行なわなければならなかった。
 その3回目、三宅はバーベルを一気に頭上へ差し上げたが、一瞬、尻が床に付きそうになった。何とか堪えて立ち上がると、成功のランプが点灯。首の皮一枚で次へつなげたのだ。

「正直、私の夏はもう終わったなと思いました。3本目を取れなかったらこれまでだったと思うしかないと考えていた。でも、最後は無心でトライをして取ることができた......。あれは本当に奇跡ですね。挙げた瞬間にぐらぐらっとしたのを抑えて、クリーン&ジャークにつなげられた。不思議な3本目だったけど、きっとみんなが手伝ってくれたんだろうな、という気がしました」
 父の義行は1968年メキシコシティ五輪の銅メダリストで、伯父(おじ)の義信は64年東京五輪とメキシコ五輪を連覇と、重量挙げ一家に育った三宅。リオが自身4回目の五輪だった。出場2回目の2008年北京五輪は、2年前の世界選手権で3位になり、メダルを視野に入れて出場した。だが、試合当日になって体重が予想より減ったことに動揺し、力を出し切れず6位にとどまった。
 その後、11年全日本選手権は1階級上の53㎏級に出場し、トータル207㎏の日本記録を出す。そして、底力を付けて臨んだ12年ロンドン五輪では、スナッチ87㎏、クリーン&ジャーク110㎏でトータル197㎏の日本記録で銀メダルを獲得した。
「北京の頃はケガで練習ができなくて、いいときと悪いときの波が激しかったから、メダルラインの重量に届く結果を出せませんでした。それからの4年間はプレッシャーもあったけど、同じ失敗は繰り返さないという思いで体重を増やして試合をしながら、体の土台作りに励んできました。200㎏以上を挙げてから減量して48㎏級で勝負するという計画でしたが、ロンドンでは北京のときより力がついている手ごたえがあった。12年間かかって遅咲きかもしれないけど、家族と一緒にやってきて、父の銅メダルより順位をひとつ上げられたことがうれしいです」
 ロンドン大会後にこう話した三宅だが、「以前は銅メダルが獲れたらいいと思っていたけれど、いろんな人に『金メダル、金メダル』と言われているうちに、自分でもここまで来たのだから金を獲りたいと思うようになりました」とも口にした。だからこそ戦いを諦めず、30歳で臨む次の五輪を目指したのだ。

 しかし、リオへの戦いは苦しかった。15年の世界選手権では48㎏級で193㎏を挙げて3位になったが、その後は左膝や腰痛などの故障が続いた。リオ五輪本番も腰痛が悪化し、痛み止めを打った上に座薬や服用薬まで使用する満身創痍での挑戦だった。
 それでも三宅にとって、追い風となる条件もあった。ロシアがドーピング問題で出場停止になり、北京とロンドンの両大会で優勝した強豪の中国が他の階級での金メダル獲得を優先した。中国は記録がやや低迷していたこともあって、金メダル獲得の確率が高い75㎏超級に選手を出し、48㎏級に出場させなかった。(※五輪の重量挙げは国別の出場枠があり階級を選ぶことができる)
 リオで手ごわい相手となりそうだったのは、前年の世界選手権53㎏級4位から階級を落としてきたソピタ・タナサン(タイ)と、世界選手権で194㎏2位のテイタテフェン・ブオン(ベトナム)。さらに直前のアジア選手権で191㎏を挙げていたアグスティア・スリワーユニ(インドネシア)だった。
 そうした中で、三宅はメダル獲得に照準を絞っていた。スタート重量を万全な体調だったロンドンのスナッチ83㎏、クリーン&ジャーク108㎏より下げ、81㎏と105㎏とした。これは、勝負所でメダル圏内の重量に挑戦する作戦だった。当日の体重はバーベルの重量に少しでも耐えられるようにするために、これまでの47.5㎏以下を、出場選手の中で最も重い47.95㎏とし、ギリギリの調整をした。
 だが、その調整が逆に、彼女の緊張感を増幅させ、スナッチでの苦しいスタートにつながったのだ。

 メダル候補のひとりで83㎏からスタートしたブオンが一度も挙げられずに脱落したのは、三宅にとって有利に働くものだったが、スナッチの順位は8位と低迷。メダルから遠ざかったかに思われたが、クリーン&ジャークで最初の105㎏を挙げて可能性を残した。その時点で競技を始めていた選手の中では、トータルを187㎏にしているペアトリス・ピロン(ドミニカ共和国)に次ぐ2位につけた。
 2回目の107㎏に挑む際には、106㎏と107㎏を1回目に挙げたタナサンとスリワーユニが1位と2位。106㎏を挙げてトータルを186㎏にしていたマルガリタ・エルセイエワ(カザフスタン)に体重差で負けて5位となっていた(※同じ記録の場合、体重が軽い方が上位になる)。だが、その時点で試技を残しているのは1、2位のふたりと三宅だけ。107㎏を挙げれば、すでに競技を終えているピロンを1㎏上回って3位が確定する。
 メダルを懸けた1回目、三宅は最後の差し上げに至ることなく失敗。バーベルを胸に持ち上げた瞬間に左肘が膝に接触する反則を犯したと判定されたからだ。ただ、107㎏で連続試技となる三宅にとって、ここで無駄に力を使わなかったことが逆に幸いした。動揺することなく落ち着いて臨んだ3回目には、きっちり差し上げた。
「3回目はすごく緊張しました。取れば3位になるけど、取れなければ5位。大きな差があるので、『絶対に取ろう、取らなければ日本に帰れない』と思っていました。すべてを集中して成功したので、決まった瞬間は素直にうれしかったです」

 点灯した成功のランプを見て銅メダル獲得を確認した三宅は、下ろしたバーベルにかがみこんでほおずりをした。三宅は照れ臭そうにこう説明した。
「バーベルは16年間、ずっと練習してきたパートナーでもあるので、メダルを獲ったら最後にはハグをして終わろうと思っていたんです。それも自分の夢だったので、やれてよかったです」
 スナッチが81㎏にとどまった瞬間、三宅のメダルの夢はついえたかに思えた。ロンドン五輪後の世界選手権の銅メダルラインは190㎏前後。そこに届かせるには、好調だった前年の世界選手権の3回目で失敗した109㎏を挙げるしかないと想定されたからだ。
 三宅が挙げた188㎏は、銀メダルを獲得したロンドン五輪より9㎏低い記録。だが三宅は、「4年前とは年齢も調整方法も違っている。記録には納得いかないが、父からは『五輪で重要なのは、記録ではなくて順位だ』と言われていました。何が起きるかわからないのが五輪だから、そうした中でメダルを獲れたのが本当にうれしいです」と笑顔で話した。
「色は銅でも、今までで一番うれしい」と話す三宅の心の中は、ケガで追い詰められた苦しい状況でしっかり戦い抜いた自分を誇らしく思う気持ちでいっぱいだったのだろう。
 この時、スポーツ界で吹き荒れていたドーピング問題も三宅に味方した。この銅メダルは、ひたむきな取り組みを続ける彼女へのプレゼントともいえる、奇跡のメダルだった。

Sportiva

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