『スバル・インプレッサワゴン』プライベーターが生み出したFRワゴンの意欲作【忘れがたき銘車たち】

10月22日(金)10時0分 AUTOSPORT web

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマはJTCCに参戦したスバル・インプレッサワゴンです。


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 1994年〜1998年まで5シーズンにわたり熱戦を繰り広げたJTCC時代の全日本ツーリングカー選手権。JTCCはトヨタ、ニッサン、ホンダの3大ワークスと外国車勢による戦いがメインコンテンツとなっていたが、ワークス系のみならず数あるプライベーターの存在もこのシリーズを盛り立てていた。


 そんなプライベーター勢のなかでも異色と言える1台でJTCCの激戦区へ殴り込みをかけたのが、今回紹介するスバル・インプレッサワゴンだ。


 JTCCにインプレッサが登場したのは1996年のこと。スバルと協力関係にあった矢島工業の立ち上げたシムスレーシングからのエントリーだった。シムスレーシングの発足は1993年。同年からN1耐久にインプレッサで参戦した。


 未舗装路のイメージが強いスバル車をサーキットでも……というコンセプトのもとでN1耐久を戦っていたが、それを終了して、次なるサーキットカテゴリーとして目をつけたのがJTCCだった。


 シムスレーシングはスバルと協力関係にはあったものの、JTCC参戦にあたっては資金や技術的な支援をスバルからまったく受けず、独自で手持ちの部品を転用しながらマシン製作を開始した。


 車両は重量バランスがよく、エンジンとトランスミッションがもともと縦置きだったために製作しやすいという理由から、スーパーツーリングカーのレギュレーションで定められた最低重量的に有利なFFではなくFRを選択。また、エンジンはEJ20ではなく、EJ18をロングストローク化して搭載していたとされる。


 ボディ形状をセダンではなくワゴンを選んだこともそうだが、BMW以外のほぼ全車がFFで参戦するなかで、後輪駆動を選んだというのも変わり種なチョイスだったと言えるだろう。


 シムスレーシングのインプレッサワゴンは、1994年頃からJTCCへの参戦が噂されていたが、実際に参戦を開始したは1996年シーズンになってからのことだった。


 しかし、いざ参戦したものの、1996年は決勝に出走できないレースもあるなど大苦戦を強いられた。そして、この惨敗を受けてシムスレーシングは、2台目の製作にとりかかる。


 1996年仕様とは全面的に考え方を変えて製作がスタート。まず、車体は設計段階から大幅な見直しが行われた。エンジンもフリクション低減やノッキングの限界向上、ピストンの信頼性確保が図られるなど、1996年仕様とは別物といえるほどの改良が施され、2台目となる車両が生み出された。


 開発は1997年シーズンに向けて行われていたが、作業は大きく遅れてしまう。よって、2台目の新車がサーキットに姿を表したのは、1998年シーズンの開幕戦となった。


 大改良のおかげで、シムスレーシングのインプレッサワゴンの性能は大きく向上し、ラップタイムの上がり幅も大きかった。しかし、ワークス勢の壁は高く厚く、目立った成績を残すことはできなかった。


 そして、同年シーズンの第4/5戦のSUGOラウンドを最後に資金の問題などもあり、参戦を取り止めたことでインプレッサワゴンの挑戦は幕を下ろした。


 1988年においても戦績は残せなかったものの、この年はニッサン、ホンダの2メーカーが撤退。BMWなどのプライベーターチームも姿を消して、チェイサーとコロナエクシヴというトヨタ車勢だけが残り、“トヨタ・ワンメイク”の様相を呈していたJTCC。そんな存亡の危機にあるシリーズを撤退までの間であったが阻止してくれたインプレッサワゴンは、マシンの成り立ちも含め最後まで存在感を放ち続けたJTCC史に残る1台だった。

さまざまな改善が盛り込まれて生まれ変わった2台目はフロントマスクも市販車の進化に併せて変更された。このマシンは松田秀士およびセバスチャン・マルティノがドライブしている。
さまざまな改善が盛り込まれて生まれ変わった2台目はフロントマスクも市販車の進化に併せて変更された。このマシンは松田秀士およびセバスチャン・マルティノがドライブしている。

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