江川・KKから根尾・吉田まで…「ドラフト1位指名」53年史

10月30日(火)7時0分 NEWSポストセブン

大騒動になった江川入団劇(共同通信社)

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 4球団競合の末に、中日が大阪桐蔭・根尾昂の交渉権を獲得し、金足農・吉田輝星を日本ハムが外れ1位で指名──ドラフトの歴史に新たなページが刻まれた。その光景は、50年以上にわたる数々のドラマ・内幕を知る“伝説のスカウト”の目には、どう映ったのか。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする(文中敬称略)。


 * * *

◆「故障を知らずに1位指名」


 1965年11月17日、プロ野球ドラフト会議は初めて開催された。男は、53年前の記憶の断片をつなぎあわせるように口を開き始めた。


「非常にファジーな形でドラフト会議はスタートし、各球団が見切り発車で選手を指名していた。ですから、契約したもののまったく使い物にならなかった選手もいた。江川(卓)の事件や他の不正もあって、ドラフト制度は大きく変わり、今はクリーンに整備されている。そういった機運を作ったのは、やはり1985年のKK(桑田真澄清原和博)のドラフトだと思います」


 82歳になる男の名は井元俊秀。長く高校野球に携わる者に、彼が残した足跡はよく知られている。現在は秋田・明桜高校に籍を置く井元であるが、2002年までPL学園で全国の選手をスカウト(選手勧誘)する仕事に従事し、KKコンビや立浪和義らを同校に導き、常勝軍団を陰から作り上げた。


 井元はPL学園1期生であり、同校を卒業後、学習院大学に入学。同大が初めてにして唯一、東都大学リーグを制した“神宮の奇跡”の時のエースだった。


 卒業後、PL学園野球部の監督に就任すると、1962年の選抜で甲子園に初出場を果たす。その後、選手の進学先の世話に悩み、野球人脈を築こうとスポーツニッポンの記者に転身。新米記者として派遣された現場が、第1回ドラフト会議だった。



「かつてのプロ野球界には、伝説を持つスカウトがたくさんいました」と井元はいう。阪神、東京オリオンズのスカウトを歴任した“マムシの一三”こと青木一三や“スカウトの神様”と呼ばれた広島の木庭教、そして中日の柴田崎雄──。


「そうしたスカウトたちが、自由競争で選手を獲得していたのが1965年以前。しかし、いろいろと暗躍する人も多かった。あるひとりの選手の獲得に熱心な球団の横から、別の球団が『うちはこれだけ(契約金を)出すよ』と獲る気もないのに大きな金額を提示する。すると先に声をかけていた球団は条件を釣り上げますよね。そうした嫌がらせが横行し、契約金が高騰していた」


 井元がスポニチに入社した1964年、東京オリオンズに上尾高校の山崎裕之の入団が決まった。契約金は史上最高額となる5000万円。そうした高騰を防ぐため、翌年からドラフト会議が実施された。


「初めてのことで、リストに挙げていた選手を他に獲られたりしたらもうてんやわんや。『休憩をくれ』と言い出す球団まであった」


 その日、大洋に1位指名されたのが、岡正光(保原高)という左腕。しかし入団後、ヒジの故障が発覚する。井元は翌1966年に大洋の担当記者としてキャンプを取材。この新人投手がブルペンで投げた瞬間、「あちゃー」と落胆する大洋首脳陣の声が聞こえたという。


◆桑田・清原「二本釣り」計画


 1968年には法政大の田淵幸一が阪神に、同じく山本浩二が広島に、明治大の星野仙一が中日に指名された。大豊作のドラフトであった。井元は翌1969年にはPLに戻り、教え子をプロに送り出すスカウトという立場でドラフトとかかわってゆく。


 ドラフトにまつわる二大事件といえば、巨人が制度の盲点を突き、1978年のドラフト前日に江川卓と電撃契約をかわした「空白の一日」事件。そして、井元がPLに導いた清原、桑田の命運が、真っ二つに分かれた1985年のKKドラフトであろう。井元の負った傷も深い。



「既に亡くなっている人も多く、真相というのは、誰にも分からない。私にも、そして桑田にも。とにかくあのドラフトはPLにかかわるすべての人間にとって不幸な出来事だった」


 5季連続で甲子園に出場し、20勝を挙げた桑田と、春夏通算13本塁打を放った清原。桑田はドラフトを前に早稲田大への進学を表明し、清原はファンであった巨人への入団希望を公言してやまなかった。


 しかし、ふたを開けてみれば、巨人が桑田を単独指名。清原は6球団の競合となり、西武が交渉権を獲得した。清原に同情の声が寄せられ、巨人と密約があったのではないかと、桑田には非難の目が向けられた。そして、この事件の黒幕と噂されたのが井元だ。しかし井元はKKの進路にはまるで関与していなかった。


「桑田を早稲田の練習に連れて行ったことはありましたが……。だからドラフト会議の日も、僕は自宅で寝ておった。そこに飛び込んできたのが桑田だった。『先生、僕は巨人とできてなんていません』と。しばらくして、清原の母親が我が家を訪れ、『どうしてこんなことになるんですか』と……。家内は泣いてしまってね。うちの息子が同級生でしたから、親同士、仲が良かったんですよ」


 もし巨人が桑田を指名していなければ、KKは揃って西武に入団したのではないか──改めて振り返っても、そんな思いが巡る。


 西武では当時、管理部長として“球界の寝業師”と呼ばれた根本陸夫が辣腕を振るっていた。根本に可愛がられていた井元は、中学生でも有望な選手を見つけたら囲い込むような強引な手腕に驚かされながら、そのスカウト術に多くを学んだ。


「西武は情報を絶対に漏らさず、独自のドラフト路線を貫いていた。これはあくまで私の憶測ですが、根本さんはKKの二本釣りを狙っていたのではないでしょうか。早稲田進学が有力視されていた桑田よりも、清原の方が競合になる可能性があった。だからまず、清原を獲りに行った。もし西武が両取りに成功していたら、誰も傷つかなかったという思いは抱えています」



 井元は後年、江川が桑田に対し、こんな発言をしたという話を耳にした。


「お前は良かったな。俺のプロ入りは他人が決めたけど、お前は早稲田にするか、巨人に入るかを自分の意志で決められたんだから」


 ドラフトは、時に有望選手の人生を狂わせてきた。


◆高卒プロ入りがいいとは思わない


 しかし、井元にはドラフトに対する信念がある。


「それはね、クジになろうが、ドラフトで決まる球団が、その選手に最も相応しい球団だろうということ」


 8球団が競合した1989年の野茂英雄や1998年の松坂大輔ら、井元が直接、関わっていないスターたちに対しても、その思いは同じだ。ドラフトとは運否天賦で、決まった球団が最良の道──。


 1987年に春夏連覇を達成した時の主将である立浪には、当時の南海監督・杉浦忠がご執心だった。しかし、中日の星野仙一も後発ながら名乗りを上げ、ドラフト前にその理由を井元が問うと、星野は「立浪が来てくれたら中日のショートは10年は安泰だ」と答えたという。その星野が、クジを引き当てる。直後、井元は杉浦からこんな言葉をもらった。


「申し訳ない。日頃、酒ばっかり飲んで、不摂生のバチが当たってしまった」


 井元は通算187勝した球界の大エースからの謝罪に恐縮しきりだったという。



 1991年にドラフト外入団が廃止に。1993年には逆指名制度が導入されるなどしたが、07年に西武の裏金問題が発生し、完全撤廃。その間も、井元は教え子をプロの世界に送り出し続けた。

 

「高卒でプロに入ることを、私が積極的に薦めたことは一度もない。高校生が夢を持つのはいいが、早急にプロに行けば、結果を残せず、失望する結果になってしまうことだってある。大学、社会人を経ることも、決して遠回りではないわけです。PLでいえば、今岡(誠)がそう。高校時代に阪神から話があったが、私はまだ早いと思って東洋大を紹介した。すると1年生からチャンスを掴み、五輪にも出た。結果、逆指名の1位で阪神に入ったわけです」


 今年は、春夏連覇を達成した大阪桐蔭の根尾昂が中日に、夏の決勝で大阪桐蔭に敗れた吉田輝星は日本ハムから指名を受けた。


 吉田とも井元は浅からぬ因縁がある。井元が選手勧誘を担当する明桜と金足農業はライバルで、2年連続で秋田大会の決勝を戦った。


 明桜の山口航輝は、井元が声をかけ、大阪から秋田に向かわせた教え子である。昨夏の決勝までは吉田を上回る評価の投手だったが、吉田の牽制で帰塁した時、右肩を脱臼し、この夏までに完全回復は叶わなかった。しかし、広角に力強い打球を放てる打力が評価され、ドラフト候補となっていた。


 井元はドラフト前、山口にこう告げていた。


「何球団から調査書が届いたとか、いろいろと一喜一憂しておったから、『指名はないと思っておいた方がいい』と伝えていたんだよ」


 それは杞憂に終わり、山口は4位で千葉ロッテに指名された。体が続く限り野球に携わっていたいと常々話している井元。次にプロに送り出す選手は、誰になるのか。


※週刊ポスト2018年11月9日号

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