『マツダ 787B』ついに叶ったロータリーによる日本車初のル・マン制覇【忘れがたき銘車たち】

2021年11月9日(火)9時30分 AUTOSPORT web

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、マツダ787Bです。


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 マツダ787は、1990年に大幅なパワーアップを果たした4ローターエンジンを搭載するなど、多岐に渡りモディファイを施してポテンシャルアップを果たしたものの、熟成不足などもあって惨敗に終わった。


 本来は、1990年限りでロータリーエンジンのル・マン参戦はできなくなるはずだったが、1991年も燃料制限を受けながら参戦が可能となり、マツダ787はさらに改良されることになった。こうして生まれたのがエボリューションモデル、マツダ787Bである。


 787Bは、787の問題点を徹底的に改善したモデルとして誕生した。まず、787で指摘されていた走行中にハンドリング特性が変わってしまう問題をマツダのスーパーコンピュータによって、リヤセクションのねじれによるものだと突き止めて、その部分の剛性を向上させた。


 さらにリヤサスペンションを改良し、ブレーキにはカーボンを採用した。また、1990年よりシケインが追加されたサルト・サーキットの特性に合わせて、トレッドが787よりもワイドとなった。エンジンにも手が加えらた。信頼性の向上やトルク特性の改善が図られるなど、787Bは、あらゆる箇所が787より改良されていた。


 そして787Bは最後のチャレンジ、1991年のル・マンへと出陣する。この年のル・マンは、同年より新たに施行された新Cカー規定に合致する3.5リッターNAエンジンを積む車両が優遇されており、787Bを含む旧規定のCカーは、前述の燃料制限など、さまざまなハンデが課せられた。


 787Bは燃料制限こそ課せられたものの、重量ハンデに関しては当時監督だった故・大橋孝至氏のACOなどとの交渉によって、ライバル車より最大で170kgほどのアドバンテージを得ることに成功していた。


 この年のグリッドは、3.5リッターNA車にトップ10が与えられることになっていたため、旧規定車は11番手以降のグリッドだったのだが、787Bは1台が12番手からスタートした。


 レースは、メルセデスC11勢優位の展開で進んでいったが、787BはジャガーXJR-12と争いつつ着実に順位を上げて、レースの4分の1を過ぎるころには首位と2周差の4番手に浮上。


 その後もジャガー勢とバトルを繰り広げながら、メルセデス勢が1台、2台と脱落していき2番手までポジションアップする。そして、残り3時間というところで、トップを独走していたメルセデスにトラブルが起き、ピットで長時間の作業が強いられると、この間にトップへ浮上する。


 最後のスティントを担当したジョニー・ハーバートは、脱水症状に陥る状態だったもののチェッカーを受け、日本車にとって初のル・マン総合優勝をマツダ787Bが達成した。


 開発陣が787のネガを徹底的につぶしてマシンを改良し、大橋監督や陣営に参画していたジャッキー・イクスの交渉によって優位な条件を得て、さらに燃費のためのドライビングをレース中にドライバー同士で情報を共有して改善していくなど、すべてのスタッフの力が結実した結果得た、栄冠であった。


 そしてこの787Bが打ち立てた金字塔は2018年、トヨタが再び日本車としてル・マンを制したあとも色褪せることなく輝き続けている。

ル・マンに参戦したもう1台のマツダ787B、18号車。ドライバーはデイビッド・ケネディ、ステファン・ヨハンソン、マウリシオ-サンドロ・サーラだった。

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