鈴木啓太が惨劇に呆然。アジア最終予選でアテネ五輪代表を襲った危機

11月11日(月)6時40分 Sportiva

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第10回
アテネ五輪に出場できなかった主将の胸中〜鈴木啓太(1)


2004年のアテネ五輪アジア予選について振り返る鈴木啓太

「僕たち、『谷間の世代』って言われていたんですよ」

 鈴木啓太は、そう言って苦笑した。

 鈴木たちの世代は、小野伸二稲本潤一遠藤保仁ら「黄金世代」とは、学年的にはふたつ下で、五輪やU−17、U−20などの世代別W杯を指針にすれば、ちょうどひとつ下の世代となる。

「黄金世代」は、1999年ワールドユース(現U−20W杯)・ナイジェリア大会で準優勝という快挙を達成。2000年シドニー五輪でベスト8に進出し、2002年日韓共催W杯にも多くの選手が代表に選出され、日本初のベスト16入りに貢献した。

 一方、鈴木たちの世代は、2001年ワールドユース・アルゼンチン大会でグループリーグ敗退。2002年日韓W杯においては、当時19歳、20歳という年齢を考えれば無理もないが、メンバーに選出された選手はひとりもいなかった。

 それでも、鈴木らは2004年アテネ五輪の主軸となる世代であり、チームが始動したときには注目された。しかし、練習試合では当初、Jクラブ相手にボコボコにされた。2003年ワールドユース・UAE大会(日本はベスト8入り)のメンバーが加わっても、なかなかチーム力は上がっていかなかった。輝かしい結果を残してきた「黄金世代」との対比で、いつしか彼らは「谷間の世代」と呼ばれるようになっていた。

「(そう呼ばれたことは)悔しかったですね。でも現実、『仕方がないな』という思いもありました。Jリーグの試合で戦っていても、黄金世代の人たちとのレベルの違いは感じていたし、実際『(黄金世代は)すごいな』って思っていた。

『じゃあ、どうするんだ?』って考えた時、結果を出していくしかない——アテネ五輪の予選は『絶対にクリアしないといけない』と思っていました」

 アテネ五輪最終予選は2004年3月、UAEと日本を舞台としたダブルセントラル方式で行なわれた。日本は、バーレーン、レバノン、UAEと同組で、1位になったチームがアテネ五輪への出場切符を手にすることができる。

 日本は、28年ぶりに五輪出場を果たした1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪と、2大会連続で五輪に出場。連続出場への期待は大きく、世間的には「出て当たり前」といった雰囲気もあった。

 チームを率いる山本昌邦監督は、最終予選を前にして、こう目標を掲げた。

「アネテ経由ドイツ行き」

 アネテ五輪を経験して、ひとりでも多くの選手が2006年ドイツW杯の代表メンバー入りを果たす、ということである。そのためには、最終予選は必ず突破しなければならない。

 鈴木は、その最終予選を戦うチームのキャプテンを任された。

 UAEラウンドの初戦、日本はバーレーンと対戦し、0−0の引き分けに終わった。勝ち点1を獲得したものの、今後の試合に向けて、不安が残る内容だった。

「みんな、動きが硬いし、勝ち点3を取らないといけない相手から勝ち点1しか取れず、(試合後は)結構『ヤバいな』ってムードになった。正直、試合前からチームの空気がよかった、というわけではなかった。テンションが高く、(チームが)ひとつになるという感じでもなく、むしろ『UAEという強豪相手に(自分たちは)やれるのか』『本当に大丈夫なのか』という雰囲気だった。それは、自分たちに自信がなかったからだと思います」

 どんな大会でも、初戦は難しい。チームが不安定な状態であれば、なおさらだ。グループ最大のライバルとなるUAE戦に向けて、チーム内には危機感があふれ始めた。


初戦のバーレーン戦は0−0の引き分けに終わった。photo by AFLO

「『このままじゃあ、マズいな』って、みんな思っていたと思います」

 選手から発せられた微妙な空気を察知した鈴木は、初戦を引き分けたあと、選手だけのミーティングを開いた。フリーディスカッションだったが、そのなかで、人一倍熱く、厳しい言葉を放っていたのが、田中マルクス闘莉王だった。

「ぐだぐだ言ったところで何も始まらない。もう、やるしかないよ」

 シンプルな言葉だったが、鈴木は選手たちの胸に響いていることを感じた。

「(ミーティングでは)いろんな声が出たけど、結局、闘莉王が言ったとおり、『やるしかない』ってことに落ち着いた。僕は、それでよかったと思っています。実際に、もうやるしかなかったので。それを、お互いに最終確認できたことで、みんな、試合に向かっていくしかなくなった」

 第2戦は、レバノン戦だった。

 田中達也が先制ゴールを決め、鈴木も追加点を挙げるなど活躍し、4−0と完勝。勝ち点3を獲得した。

「レバノン戦は、みんな必死だった。ギアを2つぐらい上げて戦った。ここで粘って勝てたのは、大きかったし、次のUAE戦に向けて、いい弾みがついた」

 日本はレバノンに勝って、1勝1分け、勝ち点4とした。一方、UAEはレバノン、バーレーンに連勝し、勝ち点6でグループ首位に立った。

 2位の日本との勝ち点差は2。だが、次の最終戦で日本がUAEに敗れると、勝ち点差は5に開く。そうなると、日本ラウンドでの直接対決を制しても、引っ繰り返せなくなる。日本は、最低でもドロー以上の結果が求められた。

「UAEが(グループの中で)一番強いのはわかっていた。でも、僕はあまり負ける気がしなかった。代表チームって、試合をこなすごとに成長していくじゃないですか。(このチームにも)そういうのを感じていたからだと思います」

 日本は、UAE戦に向けて高いモチベーションを維持して、いい調整ができていた。ところが、試合前日、チームに異変が起こった。

 練習中から腹痛を訴える選手が続出したのだ。そして、時間が経過するごとに、下痢と微熱の症状を訴える選手が増えていった。すると、夜には宿舎のメディアカルルームが”野戦病院”状態となり、日本チームは大変な状況に陥った。

 さらに、時間が進むと、重症な選手が出てきた。成岡翔と菊地直哉はほとんど体を動かせない状態になっていた。とくに成岡は、体調の回復が見込めないとのことで、試合当日にチームから離脱し、緊急帰国したほどだ。

 指揮官である山本監督は、大事な試合の前の、まさかの事態に「2年間準備してきて、これかよ……」と、運のなさを呪った。チームドクターが投薬などで懸命の処置を行なっていたが、選手の状態は悪くなる一方だった。

 鈴木は最初、何が起こっていたのか、わからなかったという。

「下痢の症状が、みんな一斉に出たわけじゃないんですよ。練習している最中から、『お腹が痛い』という選手が出始めて、だんだん下痢で倒れていく選手が増えていく感じだった。しかも、何が原因なのか、はっきりわからなかった。その時のメディカル担当の話では、『食べ物に何かを意図的に混入するのはあり得ない』ということだったけど、あとで(原因は)野菜を洗った水の可能性が高い、といった話を聞きました」

 成岡や菊地の他に、森崎浩司や平山相太らは重い症状に苦しんだ。その一方で、田中や今野泰幸、前田遼一、そしてキャプテンの鈴木は病魔の難を何とか免れていた。

「みんな、同じものを食べているのに、下痢で苦しむ選手がいるなか、僕や今ちゃん(今野)のように元気な選手もいる。『おかしいな』って思いましたよ。ただ、僕は当時からお腹の調子を整えることには気を遣っていて、梅干しとか腸内調整のサプリメントを持参していたんです。そういうのもあって、下痢にならなかったのかもしれないですね」

 大一番を迎え、ボランチの鈴木と今野は何事もなくプレーできる目処がついたが、山本監督は青白い顔をした選手を前に、「前半は0−0でいい。絶対にやられないこと。我慢して戦おう」と伝えた。

 相手はグループ最強のUAE。しかし、チームは体調不良の選手を大勢抱え、普段のパフォーマンスの半分も出せればいい状態だ。もはや、戦術面における選択の余地などなく、前半は耐えて、後半のラストに勝負をかけるしか、勝つ術はなかったのだ。

「チーム(のコンディション)は最悪の状態だった。でも、そんなことを言っている場合じゃない。闘莉王は『やるしかない。勝つぞ!』と言っていたけど、本当にそのとおり。苦しい状況に追い込まれたけど、僕らはやるしかなかった。ここで踏ん張らないとアテネには行けない。負けたら、自分たちの世代が終わってしまうと思っていました」

 試合前、アップから戻ってくると、選手たちが次々にトイレへ駈け込んでいった。鈴木もスタジアム内のトイレに行くと、これまで見たことがないような光景が広がっていた。

「そんなに酷いのかよ」

 鈴木は決戦前、あらためてチームの惨状を目の当たりにしたのである。

(つづく)

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