八重樫幸雄「あの時のアイツだ!」。プロ入りした西本聖を見て驚いた

11月12日(木)6時40分 Sportiva

「オープン球話」連載第40回

◆「代打・長嶋茂雄」の超サプライズ。西本聖の引退試合で起きたドラマ

【松山商業時代の西本聖に会ったことがある】

——前回に続いて、「江川卓&西本聖」編を伺います。前回のラストに「西本のことは入団前から知っていた」とお話ししていました。それは、どういう経緯なんですか?

八重樫 西本は松山商業高校の出身でしょ。当時の松山商業の監督は、もう亡くなられたけど、一色俊作監督だったんですよ。僕は一色監督と面識があったんです。


1974年に松山商業からドラフト外で巨人に入団した西本
——"鬼の一色"と称され、野球王国・愛媛を代表する名将として知られている監督ですね。どうして、宮城県・仙台市出身の八重樫さんと面識があったんですか?

八重樫 プロ入りする前年の1969(昭和44)年、僕は(高校の)全日本代表に選ばれて、三沢高校の太田幸司たちと一緒にブラジル遠征をしたという話は以前にしましたよね。この年の夏の甲子園で優勝したのが一色監督率いる松山商業で、そのまま高校選抜の代表監督も一色さんだったんですよ。その縁で、監督と面識ができたんだよね。

——なるほど。それで、どうしてプロ入り前の西本さんのことを知るようになったんですか?

八重樫 あれは僕がプロ3年目のことだったから、おそらく1972年のことだったと思うんだけど、三原脩さんがヤクルトの監督になった頃、熊本、四国、岡山と遠征試合が続いたんです。それで松山で試合があった時、一色監督から連絡が来たんですよ。僕はその松山の試合で足を肉離れしちゃうんだけど......。

——試合後に会う約束をしていたんですか?

八重樫 いや、電話がかかってきたんです。「八重樫くん、久しぶり。ところで明日は時間ある?」って。チームは松山のあとに岡山で試合だったから、本来なら時間はなかったんです。僕はケガをしてしまい、みんなよりひと足早く東京に戻ることになったんですよ。

——なるほど。それで、どうなったんですか?

八重樫 マネージャーが東京に戻る飛行機のチケットを手配していたんで、一色監督には「すみません。明日は東京に戻らなくちゃいけないんです」と伝えました。でも、「東京に戻るだけなら、チケットはこちらで買い替えるから、ぜひ見てほしい選手がいるんだ」と、ものすごく熱心で......。

【コントロールとボールのキレが光っていた高校時代の西本】

—— 一色監督からの直々の頼みとなると、さすがに断れないですよね。

八重樫 そうなんだよ。すると翌日、ちゃんと別のチケットも用意してわざわざ迎えに来てくれて、そのまま松山商業に行ったんです。その日は八幡浜工業高校との練習試合だったんだけど、驚いたのは、練習試合にもかかわらず入り口に机といすを置いて、チケットを売っていたんだよ。確か一枚50円くらいで、地元のお年寄りが大勢集まっていたな。きちんと放送部がアナウンスもしていて、そんなことは東北ではあり得なかったから、「さすが野球大国だな」と驚きました。

——その試合で西本さんは投げたんですか?

八重樫 そうそう。松山商業は西本がピッチャーで、八幡浜工業には河埜(和正)の弟、のちに南海に入る敬幸がいたな。

——西本さんは、当時から左足を高く上げるピッチングフォームで、シュートを投げていたんですか?

八重樫 いや、当時はあんなに足を高く上げるフォームじゃなかったし、シュートも投げていなかったと思う。あとで確認したら、「シュートはプロに入ってから覚えた」と言っていたよ。

——プロで成功する片鱗のようなものはありましたか?

八重樫 コントロールはよかったし、キレのあるいいボールを投げていた印象があるな。でも、僕はプロに入って3年目で、すでにプロの一流投手のボールを見ていたから、そこまで圧倒されるような驚きはなかったけどね。

—— 一色監督は、どうしても八重樫さんに西本さんを見せたかったんですかね?

八重樫 うん、たぶんそうだと思いますよ。「八重樫、どう思う?」って聞かれたから、さっき言ったようなことを監督に伝えました。でも、プロで対戦することになるとは思わなかったな。ある日、選手名鑑を見ていて「西本聖......、松山商業なのか......」と思って、「あっ、あの時のアイツだ!」って(笑)。あとで、僕が松山商業まで見に行っていたことを本人に伝えたけど、西本も驚いていたよ。

【当時のジャイアンツのエースは、やっぱり江川】

——西本さんは、江川さんに激しいライバル意識を燃やしていたように見えました。八重樫さんは「江川&西本」のライバル関係をどう見ていましたか?

八重樫 やっぱりエースは江川だったと思う。でも、前回も言ったように、西本は努力で必死に成績を伸ばしていった。もちろん江川も人には見せなかっただけで、陰で努力をしていたと思うけど。あと、江川は引き際もスパッとしていたよね。自らのプライドで引退を決意したのか、それとも報道でウワサされていたように、株式や不動産投資など「お金の問題」があったのかはわからないけど、あと数年はプレーできたと思うよ。

——江川さんの現役晩年は、ボールの質が落ちてきていたんですか?

八重樫 落ちてきていたと思いますね。かつてはバットがボールの下をくぐるような空振りばかりだったのに、晩年にはファールやポップフライが増えてきたから。そういうことは本人が一番痛感していたんじゃないかな。

——「空白の一日」騒動でジャイアンツに入団したものの、1979年から1987年までの実働9年の現役生活でした。

八重樫 入団してきた時はやっぱり、「この野郎」という思いで対戦したことを思い出すよ。それなのに、飄々(ひょうひょう)としたまま投げ続けて、こちらはまったくバットに当たらない。だから余計に腹が立つ(笑)。反対に、西本は闘志むき出しだったね。一度、アイツに当てられたこともあったな。

——故意の死球だったんですか?

八重樫 たぶん意識的に狙われたな。バッターは、たまたまなのか狙われたのか、わかるものなんですよ。ちょうど、うちの投手がジャイアンツのバッターにデッドボールを与えたんで、その報復だったんです。一応、帽子を取って頭を下げたから許したけど。あれは明らかに狙っていたよね(笑)。

——あらためて、この両投手を振り返っていただけますか?

八重樫 本人たちも言っているようだけど、当時のジャイアンツは江川も西本もメラメラと激しいライバル意識を持っていたようだよね。「どちらかが練習を切り上げるまで、延々とピッチング練習を続けた」という逸話もあったし。1980年代、長嶋(茂雄)さん、藤田(元司)さん、そして王(貞治)監督時代は、あの2人がいたからジャイアンツ戦は面白かったんだよ。対戦していてもとても楽しかったからね。

(第41回につづく)

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