Jリーグ初代チェアマン・川淵三郎が明かす黎明期の諸問題、「呼称」「合併」世間を揺るがしつつ乗り越えられたのは
2024年11月19日(火)10時0分 読売新聞
サッカー・Jリーグ初代チェアマンで、球技12リーグの活性化に取り組む一般社団法人「日本トップリーグ連携機構」の川淵三郎会長が、読売新聞ポッドキャスト「ピッチサイド 日本サッカーここだけの話」に出演した。Jリーグ開幕当時の秘話や横浜フリューゲルスと横浜マリノスとの合併問題など、番組MCの元男子日本代表の槙野智章さんと語った。
Jリーグのチーム呼称問題
今年2月のJ1の開幕戦は、1993年5月15日のJリーグ開幕戦と同じカードが実現した。この31年で会場の国立競技場は新しく生まれ変わった。「ヴェルディ川崎」は「東京ヴェルディ」、「横浜マリノス」も「横浜F・マリノス」へそれぞれ名称を変え、Jリーグの歴史が決して平坦ではなかったと、両チームの名称が語っているようだった。
「ヴェルディはね、当時Jリーグで一番の人気で、試合を見ててとても面白かった。パスワークだけでこんなに面白いのかと思ったのはヴェルディが初めてだよね」
「ヴェルディあってのJリーグという感じだったんだけど、当時の読売新聞の渡辺(恒雄)社長(現・読売新聞グループ本社主筆)と僕といろいろな議論があって、チーム名に企業名を入れないのおかしいとか、世の中をすごく騒がしたというか、Jリーグがスタートする前からそういう問題があって」
世間の耳目を集めたのは
地域密着の理念を掲げたJリーグは、原則として地域名+愛称をチームの呼称とするよう求めたが、従来の企業名を入れないことに反発もあった。読売クラブを前身とするヴェルディ川崎の場合、呼称問題に加え、東京への移転構想もあった。これもホームタウンとの関係を重視するJリーグとしては簡単には認められないことだった。
「渡辺主筆とのいろんな意見の食い違いが、ことあるごとにいろんなことを言われたから、参ったな、もう勘弁してほしいよと(当初の)10年くらいはそう思ってたんだけど、そうじゃなかった。渡辺主筆がJリーグに対して言ってくれたことで世間の耳目を集めて、Jリーグが知られるようになった。言ってみれば、渡辺主筆はJリーグの恩人だというのは10年たったぐらいからだよ」
ヴェルディは2008年シーズンにJ2へ降格してから、J1昇格を果たせずにいた。今季、16年ぶりにJ1のピッチに戻ってきた。
「J2に降格してなかなか上がってこれなかった。しかし、Jリーグを最初に人気リーグにしてもらった中心は、カズ(三浦知良)であり、ヴェルディであり、だから帰ってきてほしいなと。渡辺主筆とも完全に仲直りしてたからね」
マリノスとフリューゲルスの合併
順調な滑り出しだったJリーグだが、1990年代後半にはファン離れが徐々に進んでいった。
「Jリーグが10チームから12、14、16って増えていった時に、お客さんがどんどん減っていった。減った理由はいろいろあって、それまではゴール前のシーンがやたら多かったのよ。1試合に40、50回ぐらい。その都度に歓声がわくでしょ。要するに守備なんかしないって感じ。でも、だんだん守備をしないと勝てないって分かってくるわけだよね。チームのレベルが上がって、ゴール前のシーンが明らかに減っていった」
サッカーのレベルが上がったことで、観客が減るという皮肉。
「Jリーグのレベルが上がっていく過程で、ゴール前のハラハラドキドキするシーンが見られなくなった。中盤の争いなんて、初めて見る人にはあんまり面白くないもんね」
Jリーグ人気の陰りに加え、バブル景気の崩壊による日本経済の悪化が追い打ちをかけた。経営問題に直面するチームも出てきた。
1997年、日本サッカー界は初めてワールドカップ出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」にわいた。しかし同じ頃、清水エスパルスの経営問題が深刻化。運営会社が経営権を新会社に譲渡し、チーム消滅はなんとか回避した。
「マリノスとフリューゲルスの合併問題の前年に、それよりよっぽど大きな問題があった。エスパルスが潰れるかもしれない。その大変な思いをしていたから、マリノスとフリューゲルスの両方の社長が合併させてくれと来たとき、(チームが)なくなるよりはいいかと」
1998年の年末にかけて起きたマリノスとフリューゲルスの合併問題。「合併」とは名ばかりで、事実上、マリノスによるフリューゲルスの吸収合併だった。
「会社同士の決定になっていたわけだ。(会社員の経験があるから)取締役会を経た結果を覆すのは無理だって、俺はよく分かるわけだよね。とりあえず(チームは)なくなるわけじゃなくて、合併するんだから『最悪』じゃないなと。だから僕はね、もうしょうがないなと」
横浜「F」マリノス
Jリーグで初めてチームが減るという「撤退戦」。合併の情報が漏れないように進めるつもりが、すぐにメディアに情報が漏れた。
「フリューゲルスのサポーターが『川淵さんに会いたい』ってJリーグの事務局に来て、事務局には会うとややこしくなるから会うなと言われたんだけど、俺はちゃんと説明するって会った。30人くらいいたかな」
「1人ね、泣きながら訴えられたのは、『今日、ネクタイするのは生まれて初めてです。川淵さんに会うためにネクタイをしてきました。フリューゲルスというサポーターを作ったのは川淵さんでしょ。川淵さんがどうしてそれをなくすんですか』って言われた時には泣いちゃったね。心から、何とか残してほしいって、本当にそういう感じの人だったね」
横浜マリノスの名称には、フリューゲルスの「F」が付き、今も残り続けている。
おかえりなさい、東京ヴェルディ!
Jリーグ黎明期の人気を牽引し、紆余曲折もありながら31年の歴史を生き抜いてきたヴェルディとマリノス。
今年2月の東京ヴェルディ対横浜F・マリノスの開幕セレモニーには川淵さんが登場し、両チームのサポーターを驚かせた。
川淵さんはサポーターを前に、次のようにスピーチした。
「(Jリーグ開幕宣言で語った)『大きな夢』とは、老若男女、誰もが自分の好きなスポーツを楽しめるクラブを日本中につくっていこうという夢です。その夢をヴェルディはJ2にいながら、16もの競技を運営し、活動してくれているJリーグの模範生です」
「その東京ヴェルディが、16年ぶりにJ1に戻ってきました」。そう述べたとき、川淵さんは涙で声を詰まらせた。スタジアムは川淵さんの涙声にどよめき、直後、大きな拍手に包まれた。
川淵さんはポッドキャストで「途中でバッと込み上げてきちゃったんだよね。まさか自分で涙するとは夢にも思ってなかったんだけど」と笑顔で振り返る。
「お帰りなさい。東京ヴェルディ!」。川淵さんがそう呼びかけると、スタジアムはさらに大きな拍手と歓声に包まれた。
プロフィル
川淵三郎(かわぶち・さぶろう)
日本トップリーグ連携機構会長、Jリーグ初代チェアマン。早稲田大学、古河電工サッカー部でプレー。サッカー日本代表として64年東京五輪に出場。現役引退後は古河電工監督を経て、1980年〜81年に日本代表監督。Jリーグチェアマン、日本サッカー協会会長(キャプテン)として「日本サッカーの強化」と「地域スポーツの振興」に力を注いだ。2009年に旭日重光章、15年に文化功労者。1936年生まれ。大阪府生まれ。