『トヨタ・コロナ・エクシヴ』JTCCで長く愛された無冠の快速車【忘れがたき銘車たち】

2021年11月22日(月)9時30分 AUTOSPORT web

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、『トヨタ・コロナ・エクシヴ』です。


* * * * * *


 グループA規定に代わり、1994年に新たに2.0リッターNA 4ドアセダンを中心としたスーパーツーリングカーによる選手権としてスタートした全日本ツーリングカー選手権(JTCC)。シリーズ初年度は、ドイツから来襲したシュニッツァーが走らせるBMWとの激闘を制して、見事トムスのトヨタ・コロナがチャンピオンに輝いた。


 そして、ディフェンディングチャンピオンとして王座防衛をかけて挑んだ1995年、コロナに代わる新たなウエポンが投入された。それが今回紹介するトヨタ・コロナ・エクシヴ(以下、エクシヴ)である。


 エクシヴがコロナよりも優れていた点を挙げるなかで、最大のポイントはボディサイズにあった。エクシヴはコロナと比較すると全高で85mm低く、全幅で45mm幅広いボディを持っていた。そのため、空力的に優れたデザインでありながら、なおかつ、エンジンのリバースヘッド化などを施した際のパワートレイン系やサスペンション系のレイアウトに自由度があり、JTCCマシンに仕立てるベース車両として有利だった。


 それを証明するように、トムスが開発を進めたエクシヴは、シェイクダウン時から優れたポテンシャルを発揮。1994年11月に行われたテストでは、ニッサンやホンダのライバル勢より2秒以上速いタイムをマークした。


 テストでの勢いそのままに、実戦でもエクシヴは格の違う速さを見せつけて、開幕戦から3ラウンド、第6戦まですべてのレースで勝利を飾る。


 しかし、第7戦以降はシュニッツァーのBMWやHKSのオペル・ベクトラなどのライバル勢が盛り返しを見せ、エクシヴは最終ラウンドとなる第15・16戦のインターTECまでに1勝しかできなかった。


 それでも、トムスのエクシヴを駆る関谷正徳が比較的安定してポイントを稼ぎ続け、ランキングトップのまま王座決定戦を迎えることとなった。


 だが、インターTECではBMWが前年逃したタイトルをなんとしても手に入れる意気込みで、スポット参戦のマシンを用意するなど、戦力の強化を図った。


 そんなBMWは、予選から見事なチームプレイを見せて、関谷のエクシヴは2戦続けてライバルであったBMWのスティーブ・ソーパーの後塵を拝してしまう。結局、第15戦が接触によるリタイアで終わってしまったことも響いて、この年のタイトルはBMWに奪われた。


 このインターTEC後、エクシヴは前年には叶わなかったマカオギアレースでの勝利を達成する。インターTECで敗れたBMW勢に一矢報いることに成功したものの、シュニッツァーはこの年限りでJTCCから撤退。エクシヴが国内シリーズでシュニッツァーに雪辱を果たすことはできなくなってしまった。


 1996年にはホンダが生み出したアコードが登場するなど、エクシヴは苦戦を強いられる。重ねて、1997年にはトヨタの主力機が徐々にチェイサーへと移行していく。


 その後、エクシヴはプライベーターたちの手によって“ほぼ”トヨタ・ワンメイクとなった1998年も走り続けたものの、ついにJTCCでタイトルを獲得することはで叶わなかった。そして、エクシヴはシリーズの終焉とともにその役目を終えたのだった。

1995年のインターTECラウンド。その1レース目となる第15戦で2番手を争うBMWのヨアヒム・ビンケルホック、セルモのエクシヴを駆るトム・クリステンセン、そして関谷。3台は、5周目に100Rで交錯して3台ともにリタイアとなる。関谷にとっては、タイトル争いを大きく左右する接触となってしまった。
JTCCラストレースとなった1998年のインターTECでは、金石勝智のドライブするウェッズスポーツエクシヴが優勝。このレースでウェッズスポーツ車は、ルーフに『ありがとうEXiV』と『さようならJTCC』と惜別のメッセージを入れて出走した。

AUTOSPORT web

「モータースポーツ」をもっと詳しく

「モータースポーツ」のニュース

「モータースポーツ」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ