伝説の日本シリーズ、強かったのはどちらか。西武ナインそれぞれの答え

11月26日(木)11時10分 Sportiva

黄金時代の西武ナインから見た野村克也
第7回「終章」
【選手の背後で存在感を発揮した野村克也】
◆連載#6 森VS野村、投手交代の心理戦。史上最高の日本シリーズは「不動」が策だった
 1992(平成4)年、翌1993年の日本シリーズは西武とヤクルトが熾烈な戦いを繰り広げ、1992年は西武が、1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。2年間で合計14試合が行なわれ、対戦成績は7勝7敗のイーブンだった。

1992年に日本一になった西武(左)と1993年に日本一になったヤクルト(右)photo by Sankei Visual
 筆者が、この2年間の死闘を描いた『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)を執筆した動機は、「西武とヤクルト、どちらが強かったのか?」という思いからだった。
 また、同時に「両チームの決着は着いたのか?」という疑問が原動力となり、西武とヤクルトの関係者、のべ50人に話を聞いて歩く日々を過ごすことになった。

本連載は、その取材過程で感じたことをあらためて整理する契機となった。
 本連載の第1回「序章」でも述べたように、こちらが尋ねる前に西武ナインが、自ら「野村監督が......」と切り出すことにすぐに気がついた。こちらが黙っていても、先方から野村について語り始めるのだ。ヤクルトナインによる「野村評」はこれまでさまざまな形で紹介されていたが、「西武ナインによる野村評」は新鮮だった。
 西武ナインの反応を見ながら、広澤克実(本名:広沢克己)の言葉を思い出した。かつて広沢は、「当時のヤクルトのチームリーダーは?」という質問に対して、「リーダーは野村さんですよ」と断言したあと、こんなことを口にした。
「野村さんは、僕らの後ろに控えている感じなんです。選手たちの後ろで温かく、いや、温かいかどうかは別として(笑)、見守ってもらっている感覚です。『オレらに知恵はないけど、監督が授けてくれる』という感じ。僕らは、その知恵を実践していけばいい」
 広沢の言うとおり、西武ナインはグラウンド上で対峙しているヤクルトの選手ではなく、その背後に控える「野村克也」という存在に脅威を抱いていた。それは、西武ナインが口々に語るエピソードによって確信になった。

【西武ナインには、それぞれの「野村評」があった】
 本連載第2回「反発」では石毛宏典、秋山幸二の言葉を紹介した。彼らはともに「データ重視」を意味する"ID(Import Data)野球"に対して、「そんなものは西武ではとっくにやっていた」と自信満々に語った。
 第3回「敬意」では、日本シリーズ4連覇を果たしたばかりのソフトバンク・工藤公康監督が「自分が監督になってみて、あらためて野村監督の偉大さが理解できるようになった」と言い、中日の伊東勤ヘッドコーチは「選手どうこうというよりも、やっぱり"野村さん"という存在が気になっていた」と語った。
 第4回「薫陶」では、のちにヤクルトに移籍し「森野球」と「野村野球」の両方を知り、共に優勝監督となった辻発彦(「辻」は本来1点しんにょう)、渡辺久信が「野村監督に学んだことが後に役に立った」と振り返った。
 第5回「愛憎」では、現役時代はチームメイトとして、1992年、1993年は敵として、そのあとに阪神で1度は味方となり、再び敵として野村と対峙した伊原春樹の次のような言葉を紹介した。
「確かにあの頃はID野球が話題になっていたけど、ひも解いてみるとどうってことないんですよ。そんなことはどの球団でもスコアラーを中心にやっていること。それを野村監督自らあの口調でしゃべるから話題になっただけで、どこの球団も大差ないと思いますよ」
 そして第6回「盟友」では、互いの野球観に敬意を抱いていた森祇晶による「野村評」を紹介した。森の言葉の端々には、野村に対する「尊敬の念と親愛の情」があった。「勝負の鬼」と称された森が、心から心理戦、頭脳戦を楽しめることができた盟友、それが野村だった。
 あらためて取材過程を振り返ってみると、さまざまな形で西武ナインは「野村克也」を意識し、それぞれの「野村評」を持っていた。グラウンドで戦うのは、あくまでも選手である。しかし、野村克也の場合は監督として、類まれな存在感を誇っていたことを再認識することになった。

【そして今、野村の遺伝子は球界全体に......】
『詰むや、詰まざるや』では、冒頭に掲げた「どちらが強かったのか?」「決着はついたのか?」を、西武、ヤクルトの関係者に訪ね歩くところから始まった。この質問に対し、石毛宏典は「何をもって互角というか、ですよね。たとえば、1992年も第7戦の広沢の変なスライディングがなければうちは負けていた。どちらが勝っている、どちらが劣っているというのは、本当に難しいことですよ」と答えを保留した。
 渡辺久信は「決着か......。別に決着をつけなくてもいいんじゃないですか? 2年続けて第7戦まで行くっていうことはどっちも精神力が強いんですよ。どちらかがプツンと切れちゃったら4勝1敗ぐらいで終わっています。特に1992年は、延長戦が4試合もありましたよね。技術はもちろんだけど、精神的なタフさをどちらも持っていたんです」と笑う。
 秋山幸二は「あの2年間、両者の力はそんなに変わらなかったと思うんです。その結果、2年とも4勝3敗で両チームが日本一になった。ということは両方ともいいチームだった。両方とも強いチームだった。そういうことじゃないのかな?」と結論づけた。
 中には潮崎哲也のように、「勢いがあったのは間違いなくヤクルトだった」と語る者もいれば、笘篠誠治のように「当然、西武が強かった」と断言する者もいた。それぞれに、それぞれの答えや解釈があるのが実に興味深かった。しかし例外なく、西武関係者全員が、「野村監督が......」と自ら語り出したことは、あらためて強調しておきたい。そこまで、相手チームに警戒心を与えることができる指揮官は野村以外に、今後も登場しないのではないだろうか。
 2020(令和2)年2月11日、野村克也が84歳で天に召された。当時、黄金時代を迎えていた西武を相手に死闘を繰り広げた1992年、1993年からおよそ30年もの時間が流れていた。名将の死は、球界にとって大きな損失だ。


名選手にして名将だった野村克也氏 photo by Hasegawa Shoichi
 しかし、野村の教え子、野村と対峙してそのエッセンスに触れた西武ナインたちは、指導者として、球界のど真ん中で奮闘している。野村の遺伝子が現在の、そしてこれからの球界にどんな影響を及ぼすのだろう。
 寂しい思いは依然として強くある。それでも、その遺伝子がどんな形で花開くのか? そんな視点でこれからの野球界に注目したい。かつて、「詰むや、詰まざるや」の息詰まる熱戦があった。その立役者となったのは、間違いなく野村克也だった——。

Sportiva

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