事実上の“Jリーグ追放”?Y.S.C.C.横浜の役目は終わったのか

2024年12月11日(水)18時0分 FOOTBALL TRIBE

Y.S.C.C.横浜 写真:Getty Images

明治安田J3リーグのY.S.C.C.横浜(YS横浜)は、12月7日に行われたJFL(日本フットボールリーグ)との入れ替え戦で、JFL2位の高知ユナイテッドを相手に2試合合計1-3で敗れ(第1戦1-1、第2戦0-2)、Jリーグ退会とJFLへの降格が決まった。


これはJ1からJ2、J2からJ3への降格とはワケが違う。Jリーグ退会は、“アマチュア”からの再出発を求めるものだ。仮に来2025シーズンJFLで2位以内に入ったとしても、再び入会資格を審査されることになる。事実上、“Jリーグからの追放”と言える。


敗戦から2日後の9日、YS横浜の代表取締役の吉野次郎氏が公式サイト上で「Y.S.C.C.を応援してくださる全ての皆さまへ」と題した声明を発表した。


「日頃よりY.S.C.C.へ、温かいご支援とご声援を頂戴し、誠にありがとうございます」「7日に行われました、入れ替え戦の結果を受け、Jリーグを退会することとなり、2025シーズンはJFLに戦いの場を移すことになりました」「最後までご声援を送り続けてくださったファン・サポーターの皆様、ご支援いただいているスポンサー企業の皆様、そしてY.S.C.C.に関わる全ての皆様のご期待にお応えすることが出来ず、誠に申し訳ございません」「来シーズンは1年でJリーグへ復帰する為、全精力を注いで邁進してまいりますので、今後とも変わらぬご声援のほどよろしくお願いいたします」


ここではYS横浜のこれまでを振り返り、Jリーグにおける役目や今後の展望について考察する。




全日本空輸 写真:Getty Images

Y.S.C.C.横浜の成り立ちと歴史


「Y.S.C.C.」とは「横浜スポーツ&カルチャークラブ」の略称で、その名の通り、横浜の本牧地区を拠点とした総合型地域スポーツクラブだ。J2クラブライセンスを取得するために、2019年に運営会社が株式会社化されたものの、実質上、その株主であるNPO法人によって運営されている希少なクラブだ。


その歴史は古く、1964年に結成された「横浜・中区スポーツ少年団」をルーツとしている。しかし、プロ化を見据えたサッカークラブへの変革を目指して全日空が資本参加し、1984年、JSL(日本サッカーリーグ)1部へ昇格。それと同時にクラブは全日空の完全子会社「全日空スポーツ」が運営する「全日空横浜サッカークラブ」となる。


しかし1986年、設立当初の理念である「地域に根ざしたクラブ」を無視した企業スポーツとしてのクラブ運営に疑問を持った選手が、OBやスタッフと共謀する形で前代未聞のリーグ戦ボイコット事件を起こした。(1986年3月22日、西が丘サッカー場でのJSL第22節三菱重工戦でクラブ運営に不満を抱いていた選手6名が試合をボイコットし、当該選手は無期限登録停止、クラブにも翌シーズンのJSLカップを含む3か月間の公式戦出場停止の処分)


その末、1986年9月に新設されたのが「横浜スポーツクラブ」であり、YS横浜は現在でもこの年を設立年度としている。1987年には「横浜サッカー&カルチャークラブ」に改称。翌1988年、神奈川県リーグ3部からスタートし2年連続で昇格し、1990年には1部に。2002年には運営母体をNPO法人化、クラブ名も現在の「横浜スポーツ&カルチャークラブ」となる。


2003年、関東リーグが2部制を導入したことによって、関東リーグ2部に参入したYS横浜。2年目の2004年に2部2位となり、1部に昇格。2006年には1部で初優勝を果たした。2011年、関東リーグ1部で4度目の優勝を果たし、全国地域サッカーリーグ決勝大会(地域CL)で4回目の挑戦の末に初優勝、JFL昇格を果たした。




Y.S.C.C.横浜 サポーター 写真:Getty Images

Jリーグへ参入してから


2013年、翌シーズンからのJ3創設が発表されると、YS横浜はJリーグ参入へと方針転換する。ホームスタジアムを三ツ沢球技場とし、Jリーグへの入会が承認されJ3へ参入した。“J3オリジナル11(参加12チームのうち特別枠の「Jリーグ・アンダー22選抜」を除いたもの)”の1つに数えられている。


YS横浜の代表取締役でNPO法人の理事長も務める吉野氏にとって、本牧地区は生まれ育った地元であり、人一倍思い入れの強い土地だろう。吉野氏の思いを具現化するように「地域はファミリー」をスローガンに、簡易宿泊所で暮らす日雇い労働者の多い寿地区においてスタッフが無料の健康相談を催したり、管理栄養士やコーチらが足を運び、毎月1回、栄養や口腔衛生、健康体操、睡眠、サッカーなどの各講座を開き、運動不足解消のための「ウォーキングサッカー大会」も開催している。


設立当初から中学生年代を中心とした育成型クラブであり、ホームゲームの試合前にはスクール生が諸々の準備を務め、試合が始まるとゴール裏でトップチームに声援を送る姿が見られる。Jリーグの中では異彩を放つクラブだ。


しかし、その異質なクラブコンセプトは、Jクラブが60を数える現在、時代にそぐわないものとなってしまった。J3ならJ2、そしてJ1を目指すのは当然という空気の中、外野から見れば「昇格する気概が見えない」印象を与えてしまったからだ。


そしてついに今2024シーズン19位に終わり、2023シーズンから始まった(2023年は、J3参入資格を持たないHonda FCがJFL優勝、ブリオベッカ浦安が2位となったため開催なし)J3・JFL入れ替え戦に回った末、「高知県にJリーグを」のスローガンの下、県全体の期待を背負って戦いに挑んできた高知ユナイテッドの勢いと執念に屈した。


ニッパツ三ツ沢球技場 写真:Getty Images

Jの舞台に戻る意思とメリットは


問題はここからだ。果たして再び戦いの場をJFLに移すこととなったYS横浜は、再度、Jリーグ復帰を目指すのだろうか。そうであればJFLで2位以上の成績を収めた上で、再度クラブライセンスを取得するため「観衆平均2,000人」と「ホームスタジアムの3分の1以上に屋根の設置」といった問題をクリアしなければならない。


ニッパツ三ツ沢球技場に屋根はほとんどないに等しいものの、J創設からホームスタジアムとして使用されている実績(1993-横浜マリノス、1993-1998横浜フリューゲルス、1999-横浜FC、2014-Y.S.C.C.横浜)から、ここで蹴られることはないだろう。


しかし、観衆平均2,000人というハードルを越えるのは至難の業だ。現にここ3年、YS横浜の観衆平均は約1,100人前後で推移しており、スクール生を総動員したとしても不可能に近いと思えるからだ。


そもそも吉野氏をトップとするフロントが再びJの舞台に戻る意思があり、そこにメリットを感じているのかどうか。「地域密着」と「社会貢献」がクラブの存在意義だとすれば、既にその目的は十分に達成している。吉野氏の理想を引き続き追求するとしても、JFLでも可能である上、フットサルチームは日本最高峰のFリーグ1部に属している。無理に背伸びしてJ再参入を目指す必要性を感じないのである。




田場ディエゴ 写真:Getty Images

姿勢が問われる2025シーズン


2014年から10年間、YS横浜がJ3に居続けてくれたお陰で、J3クラブのある地方出身者は上京したとしても年に1度は応援に行くことができた。しかし降格によって、J3クラブが首都圏から消えてしまった。YS横浜戦のアウェイ側席はさしずめ“即席県人会”の様相を呈していたものだ。その点でYS横浜の降格を残念に思っているJ3ファンは少なくないだろう。


しかし降格決定早々、2024シーズン出場ゼロのMF田場ディエゴが、X上で倉貫一毅監督の采配や練習メニュー、フロントのチームマネジメントを批判した上で、チームの内情や契約内容も暴露している(現在は削除)。田場の主張の真実性への疑義や、試合に絡めなかった腹いせの可能性があるものの、成績以前にチーム内は崩壊状態にあったことが透けて見える。


JFL降格によって、来2025シーズンはゼロどころかマイナスからのスタートを余儀なくされるYS横浜。ただでさえ「横浜に3クラブは多過ぎる」と言われる中で再びJを目指すのか、JFLに身を置いて地域密着型クラブとして再出発を図るのか、いずれの道を選ぶにしても簡単ではないが、「Y.S.C.C.横浜」としてのクラブの姿勢が問われるシーズンとなりそうだ。

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