リオ五輪で失格→猛抗議して銅メダル獲得。日本を強豪に押し上げた男

12月14日(月)16時55分 Sportiva

PLAYBACK! オリンピック名勝負ーー蘇る記憶 第43回 
スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。
【写真】リオデジャネイロ五輪の荒井広宙
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2016年リオデジャネイロ五輪競歩50kmで銅メダルを獲得した荒井広宙
 少しずつレベルを高めてきた日本の競歩。世界陸上は、1991年東京大会の50km部門で今村文男が7位に入って以来、数大会ごとに入賞者を出してきた。五輪では、2008年北京大会の50㎞で山崎勇喜が7位で初入賞。その後、五輪の表彰台にはなかなか手が届かないままだったが、16年のリオデジャネイロ五輪は、競歩初のメダル獲得の期待がかかる大会だった。
 その前年、日本選手の活躍が光っていた。15年3月に鈴木雄介が全日本競歩能見大会兼アジア選手権の20㎞で1時間16分36秒の世界記録を樹立。日本男子50年ぶりの世界記録保持者としてトップに立った。
 同年8月の世界選手権では、鈴木は恥骨の炎症の影響で20kmを途中棄権したが、50㎞では谷井孝行が3位に入り、荒井広宙(ひろおき)は4位。日本競歩史上初のメダル獲得とダブル入賞を果たしていた。
 そして、16年8月のリオ五輪当日。午前8時、気温22度ながら強い日が差す中、スタートした50㎞は世界記録保持者のヨアン・ディニズ(フランス)が1周目から飛び出した。その後も1周(2㎞)8分50秒を切るハイペースでどんどん差を広げていった。

 しかし、序盤でリードしても途中で失速することがあるディニズ。前年の世界選手権優勝のマテイ・トート(スロバキア)や、2位だったジャレド・タレント(オーストラリア)らはディニズを追わず、レースが落ち着いた6km過ぎから9人で追走集団を形成した。
 その中で日本勢の主役になったのは、世界選手権メダリストの谷井ではなく、荒井だった。
 その後、森岡紘一朗が早々に後ろの集団に下がり、谷井も21km付近でペースを落としてしまう。結局、追走集団に残ったのは荒井だけになった。
 世界選手権後、ケガなく充実した練習ができていたという荒井は、タレントやエバン・ダンフィー(カナダ)のゆさぶりにも過剰に反応することなく、状況に応じた冷静な歩きをした。すると、32km過ぎからディニズが失速。40㎞手前で5人のトップ集団を形成した。
 その直後、タレントが勝負をかけるとトートが追い、荒井もトートについてタレントを追う。44㎞では荒井とトートのふたりが抜け出しタレントを追う形になった。

 荒井は45㎞でトートに突き放され、単独3位で歩いていると、49㎞手前でダンフィーが追いついてきた。しかし、荒井は慌てることはなかった。
「最後まで身体が動いている感覚がありました。途中で谷井さんと森岡さんが(上位集団から)いなくなって日本人は僕ひとりになったけれど、(前年の)世界選手権で谷井さんが3位になっているので、ただでは終われないという気持ちでした。カナダの選手(ダンフィー)に追いつかれた時は(世界選手権で)4位だったことを思い出して『やばい』と思いましたが、今回は負けられないと......。何も仕掛けないで終わるのはもったいないし、先に仕掛ければダメでも諦めがつくと思い、ラスト1㎞でいきました。体も動いたので、そこで勝てるかなと感じました」
 こう話した荒井は、ダンフィーに14秒差をつける3時間41分24秒でゴール。トートに抜かれて2位になったタレントを8秒差まで追い詰めた。
 だが試合後、銅メダルが確定するまでは長かった。荒井がスパートする直前にダンフィーと接触したことについて、カナダチームが「妨害行為だ」と抗議し、一時、審判長が荒井を失格と判定したのだ。
 その接触は、一度抜かれた荒井がダンフィーを抜き返そうとした際に起きた。先に折り返し地点が迫っていたため、荒井が内を突くと、寄せてきたダンフィーの左肘が荒井の上腕部に当たった。少し歩いて荒井が前に出ると、ダンフィーは2、3歩よろけて両手を広げて減速。妨害をアピールするようにも、また、諦めた気持ちの表れとも思える動きを見せた。しかし、何度も映し出されたスロー映像を見る限り、衝撃でのけぞったのは荒井のほう。競歩ではよく見られる接触シーンでしかなかった。
 失格の判定を知らなかった時点で、荒井は「腕振りが大きい競歩は接触がつきものなので......。接触で脇腹が痛くもならなかったので、影響はなかったです」と説明。接触されたという認識だった。

 日本チームは即座に抗議し、裁定は国際陸連の担当理事会にゆだねられた。結局、荒井を失格とした審判長の判断は取り消され、約3時間後に荒井の銅メダルが決定した。
 日本陸上競技連盟(日本陸連)の今村文男・競歩部長はメダルが確定した後に、舞台裏を明かしてくれた。
「失格とされた時は『え、あれで?』という印象でした。他の国のコーチから『なんで荒井が失格なんだ?』と聞かれて説明すると、彼らは『カナダの選手が疲れてフラフラになっていたからじゃないか』と呆れていました」
 走ることが好きで陸上を始めた荒井は、高校入学後に長距離から競歩に転向。なかなか芽が出ず、インターハイ(高校総体)にも出場できなかったが、競技を続けようと福井工業大学に進学した。しかし、ここでは陸上部の雰囲気が合わず退部。それでも、卒業後も競歩を続け、中学時代の鈴木雄介を指導していた内田隆幸コーチの助言を受けて50kmに取り組むと力をつけ始め、08年からナショナルチーム合宿に参加させてもらうようになった。
 だが当初の荒井は、五輪を意識することもなく「日本選手権で入賞できればいい」という程度の考えだった。そうした意識が、合宿で谷井や森岡、鈴木などの日本のトップ選手と接しているうちに徐々に変わっていった。世界大会出場を目指すようになった荒井は、11年には世界選手権に初出場し、6位の森岡と9位の谷井に続く10位に入った。さらに、13年世界選手権では11位、14年は日本歴代3位の2時間40分34秒を出すと、15年には谷井を破って日本選手権で初優勝を果たした。

 そして、「好きだから競技を続けたい」という素直な心で歩き続けた荒井がたどり着いた初めての五輪が、リオだった。紆余曲折あった競歩人生を象徴するような、ドタバタ劇の末に獲得した彼らしい銅メダルは、この大会の陸上競技日本チームの初メダルであり、日本競歩悲願の五輪初のメダルだった。
 そんな快挙を達成したにもかかわらず、荒井は控え目な姿勢を崩さず、穏やかな笑みを浮かべた。
「五輪初メダルということで、小坂忠広さん(当時・日本陸連競歩副部長)や今村文男さんなど、先輩たちが作り上げてきたものをようやく形にすることができました。少しは貢献できたかなと思います。
 失格になることなどいろいろ考えていたら、ダンフィー選手から『ごめんね』と謝ってくれたので、彼自身が抗議したわけではないとわかってうれしかったです。ハグした時には泣きそうになった。(ダンフィーが)謝ってくれたから、もうメダルはもらえなくていいかなと思ったほどです」
 荒井は、リオ五輪後も立ち止まることはなかった。翌17年の世界選手権では、優勝したディニズには完敗したものの2位。日本競歩の実力を証明し、その後の日本の競歩王国への歩みをより強固なものにした。

Sportiva

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