日本の「お家芸」4×100mリレー。世界を驚かせたリオ五輪の舞台裏

12月24日(木)10時50分 Sportiva

PLAYBACK! オリンピック名勝負ーー蘇る記憶 第44回
スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。
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リオデジャネイロ五輪男子4×100mリレーで銀メダルを獲得した日本チーム
 
2016年リオデジャネイロ五輪の閉幕前日、日本を沸かせたのは、陸上男子4×100mリレーの銀メダル獲得だった。
 00年シドニー五輪以来、世界大会の決勝の常連になり、08年北京五輪では銅メダルを獲得(*優勝したジャマイカのドーピング違反が2018年に判明し、銀メダルに繰り上げとなった)。その後はメダルにあと一歩のところで足踏みしていたが、リオ五輪ではウサイン・ボルトを擁するジャマイカに次ぐ2位でゴール。実力でもぎ取った銀メダルという、価値ある結果だった。
 他の強豪国のような、100m9秒台や200m19秒台がひとりもいないチームでの快挙。背景には、高いレベルでほぼ同等の力を持った選手がそろい、バトン技術を高めたられたことがある。
 北京五輪後は朝原宣治の引退や末續(すえつぐ)慎吾の休養、塚原直貴の不調により、ナショナルチームに残ったのは高平慎士だけになった。11年世界選手権は予選敗退の屈辱を味わったが、同時に若い世代が育ち始めていた。
 12年ロンドン五輪では、当時20歳の山縣亮太が初出場ながら100m予選で自己新記録を出して準決勝進出。10年世界ジュニア200mを優勝した21歳の飯塚翔太も、個人では予選敗退だったが、4×100mリレーは4走を務めて4位入賞に貢献する走りを見せた。

 さらにチームに大きな火をつけたのは、桐生祥秀だった。高校3年だった13年の織田記念予選で、世界ジュニア記録(当時)に並ぶ10秒01を出し、決勝では追い風2.7mの参考記録ながら、山縣を0秒01抑える10秒03で優勝したのだ。
 桐生、山縣のふたりがライバル意識を持って高め合う一方で、ロンドン五輪で200mに出場していた高瀬慧(けい)は、14年アジア大会100mで3位になると、15年には100mで10秒09、200mも日本歴代2位の20秒14を出していた。
 さらに、09年世界選手権出場の藤光謙司も15年に200mで20秒13をマークし、世界選手権では高瀬とともに準決勝進出。中堅層も伸び、戦力に厚みが出てきていた。
 桐生と山縣が10秒0台を連発する中、16年には、ケンブリッジ飛鳥が10秒10まで記録を伸ばし、6月の日本選手権でそのふたりを抑えて優勝。また、飯塚も日本選手権200mで20秒11を出して存在感をアピール。五輪代表6名は20歳の桐生から30歳の藤光まで、100mと200mに3人ずつ送り込むという充実した状況だった。
 ところが、リオ五輪の個人成績は100m準決勝で10秒05の自己新を出した山縣以外は納得のいかない結果に終わった。桐生は自分の走りができずに予選落ち。ケンブリッジは予選こそ好調だったが、準決勝は隣のジャスティン・ガトリン(アメリカ)の好スタートに圧倒され最初から最後まで硬い走りとなってタイムを落とした。200mは3選手とも予選敗退だった。

 それでも日本選手たちのリレーへの自信は揺らがなかった。日本陸連の苅部俊二・短距離部長は「みんな調子が悪いわけではないから、リレーは大丈夫だと思っていた」と話した。同時に、試合直前まで2走に飯塚を使うか、高瀬を使うかで悩んでいたという。
 予選で選手たちはその自信を結果として示した。第1組で中国がアジア記録を0秒10更新する37秒82を出し、アメリカに次ぐ2位になっていたが、日本チームは動揺することはなかった。第2組に出場し、ウサイン・ボルトを欠くジャマイカを0秒26差で抑え、日本記録を一気に0秒35塗り替える37秒68で1位になった。
 しかし選手たちは、そこで喜びをあらわにすることはなかった。
 飯塚は「37秒6台を出せたのはうれしいが、練習の出来からすれば可能性がある記録だった」と言い、山縣も「メダルを獲るのが目標。これくらい出さないとメダルには届かないと思っていたので」と冷静だった。
 それまでなかなか届かなかった37秒台だったが、選手たちにとって出さなければいけない記録であり、出して当然の記録になっていた。さらに選手たちは、攻めの気持ちを忘れなかった。予選では、バトンパスで詰まったミスもあり、もっと改善できると考えていた。

 日本チームが安定した成績を残していた要因のひとつにアンダーハンドパスがあるが、16年冬からはその改良に取り組んでいた。以前のほぼ並んでバトンを受け取るスタイルを50〜60センチ離れた状態で受け渡しをするようにして、利得距離を増やす狙いがあった。予選はバトンの受け渡しで少し詰まってタイムロスをした区間もあったため、決勝は各区間で、バトンを受け取る側の選手が走り出すポイントを2分の1足長からさらに4分の1足長伸ばし、より加速した状態でのバトンパスを目指した。
 それは、冒険でもあった。ロンドン五輪の決勝では足長を伸ばした修正を気にして思い切って出られず、逆に詰まったバトンパスになってしまった苦い経験がある。しかし、リオの決勝では、思い切り勝負することができた。
 日本チームの大きな武器は、第1走を務める山縣の存在だった。苅部部長は「100mのリアクションタイムは0秒109(0秒1を下回るとフライングで失格になる)で、全選手中でもトップクラス。1走としては世界一じゃないかと思う」と自信を持っていた。
 予選でも曲走路を10秒2台前半で走り、過去の五輪や世界選手権優勝チームの1走のラップタイムを大きく上回っていた。決勝でも、先手を取って流れを作る必勝パターンの走りを見せた。
 バトンパスも絶妙だった。2走の飯塚は「勢いを緩めずに走った。もらったのはギリギリのところだったが、山縣がすごい勢いで来ているのはわかっていた」と振り返った。飯塚は他チームのエースに少し詰められながらも互角の走りをした。
 3走のスペシャリスト桐生は「飯塚さんは絶対に追いついてバトンを渡してくれると信じて、思い切って出た」とスタート。すると、外側レーンを走る選手をふたり抜き去り、ケンブリッジに先頭でバトンを渡した。

「ボルト選手に抜かれる時、バトンを当てて少しバランスを崩してしまったけれど、今までで一番短く感じた100mでした。後半は離されたが、ゴールしてからは『やったー!』という感じで。これまで(の走り)で最高でした」
 こう話すケンブリッジは、ボルトに0秒33突き放されながらも、アジア記録をさらに更新する37秒60でゴールし、レース後にオーバーゾーンで失格となったアメリカにもわずかに先着。100m3位、200m2位のアンドレ・デグラッセが追い上げたカナダも0秒04差で下す、正真正銘の銀メダルだった。
「北京はメダルを狙っていたが、獲れるかどうかは半信半疑の状態で、決勝前夜は誰もメダルとは口にさせない異様な雰囲気だった。でも、リオは全員の『やれる』という気持ちが先行して、『メダルを獲ろう』と口にしていた。狙って獲ったメダルだと思います」(苅部部長)
 100mは静止状態からトップスピードにいち早く乗るための筋力が必要だが、リレーの場合はスタンディングの姿勢から加速した状態でバトンを受け取る。その加速走のスピードでは世界のトップクラスに十分対抗できる力を持っていた。わずかな差はあっても、バトンパスでの減速を極力抑えることで補える。そこを追求した結果だ。
 苅部部長が「日本には技術があって、バトンパスワークは世界一だと思う。スピードの落ちないバトンパスは日本のお家芸のようにもなってきている。15年間やっているアンダーパスが、世界でも認められてきている」と話す。

 北京五輪の銅メダル獲得は、後に続く選手たちに「リレーなら世界でメダルを獲れる」という現実を見せて勇気や夢を芽生えさせた。それが今度は銀メダルで、その先は金。選手たちは東京五輪の目標を「金メダル」と口にできるようになった。
 日本チームが記録した37秒60は、ジャマイカとアメリカに次ぐ世界国別歴代3位(当時)。100m9秒台の選手がいないオーダーでこの記録を出したことは、世界を驚愕させるものだった。
 だが、金メダル獲得となれば、個人で100m9秒台や200m19秒台を出すことは絶対条件。この4人だけでなく、彼らを追いかける後輩選手たちにとっても、東京五輪までに実現しなければならない最重要課題となった。


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