通算5度のタイトルホルダー、ホルヘ・ロレンソがMotoGPで走り続けた18年/(2)最多ポイント数で初タイトルを獲得

2019年12月27日(金)18時45分 AUTOSPORT web

 2019年シーズンをもって現役を引退したMotoGPライダー、ホルヘ・ロレンソの足跡をたどる第2弾。『通算5度のタイトルホルダー、ホルヘ・ロレンソがMotoGPで走り続けた18年/(1)250ccクラスで2連覇を達成』に続く本記事では、ロレンソがMotoGPクラスにステップアップした2008年から、2度のチャンピオンを獲得する2012年までを追っていく。


 2008年、ロレンソはヤマハのファクトリーチームであるフィアット・ヤマハ・チームから最高峰クラスデビューを果たした。チームメイトは、このときすでに通算7度のタイトルを手にしていたバレンティーノ・ロッシ。2008年シーズンはタイヤがブリヂストンとミシュランのコンペティションで、ブリヂストンを履くロッシに対し、ロレンソはミシュランを履いてシーズンを戦った。


 ロレンソは、最高峰クラスのデビューレースである開幕戦カタールGPでポールポジションを獲得。決勝レースでは優勝こそ逃したが2位を獲得し、その非凡な才能を証明した。続くスペインGPでも3位表彰台を獲得したロレンソは、第3戦ポルトガルGPでついにクラス初優勝を飾る。


 しかし、その威勢のよさはロレンソに好成績とともに転倒と怪我をもたらした。第4戦中国GPではフリー走行1回目の走行中に転倒を喫し、両足首を負傷。それでも決勝レースを走りきり、このとき4位を獲得した。


 さらに第7戦カタルーニャGPのフリー走行2回目で、ロレンソは激しいクラッシュを喫した。ロレンソは頭部を激しく打ち付け、一時的な記憶喪失のような状態にもなった。この転倒により、ロレンソはカタルーニャGPの決勝レースを欠場している。こうした度重なる大きな転倒や怪我を負いながらも、ロレンソは1勝と6度の表彰台を獲得し、ランキング4位でMotoGPクラスのルーキーイヤーを終えた。


 ロレンソが初めてのMotoGPタイトルを獲得するには、もう1シーズン、2009年を経験しなければならなかった。この年からタイヤはブリヂストンのワンメイクとなっている。2009年シーズンは、ロレンソとロッシという、チームメイト同士によるチャンピオン争いが展開された年だった。


 特に第6戦カタルーニャGPでは、ロレンソとロッシは文字通り火花散る優勝争いを演じた。最終コーナーでロッシに交わされたロレンソは、優勝したロッシとの差わずか0.095秒差で2位に甘んじる。こうした激しいレースを展開し、ロレンソはロッシとチャンピオン争いを繰り広げていたが、終盤の第15戦オーストラリアGPのノーポイントが響いた。ロレンソはこのシーズン、チャンピオンのロッシと45ポイント差でランキング2位を獲得する。

ロッシと火花を散らした2009年シーズン


 MotoGPクラス3年目の2010年シーズン。ロレンソはこの年、18戦中9勝を挙げて16度の表彰台を獲得し、383ものポイントを積み重ね、ついに最高峰クラスの頂点に輝いた。ロッシが第4戦イタリアGPでの転倒により右足を骨折し、このイタリアGPの決勝レースを含む4戦の欠場を強いられたことも、優位に働いただろう。


 このときロレンソが獲得した383ポイントは、2019年シーズンにマルク・マルケス(レプソル・ホンダ・チーム)が420ポイントを獲得してその記録を破るまで、最高峰クラスのシーズン最多獲得ポイント数であり続けた。

2010年はロレンソがヤマハ、ストーナーがドゥカティ、ペドロサがホンダで戦っていたシーズン
2010年は当時の最多獲得ポイント数を更新して初のチャンピオンを獲得した


 ディフェンディングチャンピオンとして挑んだ翌2011年シーズン。ロレンソと同じヤマハYZR-M1を駆るチームメイトとして競い合ってきたロッシが、ヤマハからドゥカティへと移籍。さらにはドゥカティのエースライダーとして活躍してきたケーシー・ストーナーがホンダに移籍するなど、トップライダーたちの配置が大きく変わった。そうしたなかでロレンソは、名実ともにヤマハのファクトリーチームのエースとして戦っていくことになる。


 ホンダに移籍したストーナーがチャンピオンシップをけん引したこのシーズン。ロレンソはシーズン中盤までストーナーに食らいついていたが、ストーナーが少しずつポイント差を広げていった。


 また、ロレンソはシーズン終盤の第16戦オーストラリアGPの決勝日、ウオームアップ走行で転倒して左手薬指を負傷。この怪我によりロレンソはレースと第17戦マレーシアGPを欠場することになる。最終的にロレンソはランキング2位にとどまり、チャンピオンはストーナーが獲得した。


 この2011年シーズンでは、次第に頭角を現し始めていたマルコ・シモンチェリ(サンカルロ・ホンダ・グレシーニ)が、第17戦マレーシアGPの決勝レース中の事故により他界。グランプリ全体が、深い悲しみに包まれた。


 マシンの最大排気量が1000ccへと引き上げられた2012年シーズン。排気量の変更とともに、CRT(クレーミングルールチーム)という新たな参戦形式が導入されたシーズンでもあった。CRTとはオリジナルのフレームに量産ベースのエンジンを搭載したマシンで戦うもので、リーマンショックから続く世界的な経済状況の悪化により減少傾向にあった、MotoGPクラスのエントリー台数を確保するために生まれたルールだった。


 ロレンソは開幕戦カタールGPを優勝で飾ると、シーズン序盤から快進撃を続けた。ロッシはドゥカティで苦戦を強いられ続けており、また、前年王者のストーナーはコンスタントに優勝と表彰台を獲得していたが、第11戦インディアナポリスGPの予選で転倒。右足を負傷し、第12戦チェコGP以降の3戦を欠場してチャンピオン争いから脱落する。なお、ストーナーはこの2012年シーズンをもって現役を引退した。


 2012年シーズン、ロレンソの前に立ちはだかったのはレプソル・ホンダ・チームのダニ・ペドロサだった。シーズン序盤に勝ち星を手にしたロレンソに対し、ペドロサは終盤に優勝を重ねる。ロレンソも終盤には2位フィニッシュを続けるが、ポイント差はじりじりと縮まり、ペドロサが優勝、ロレンソが2位の結果となった第16戦マレーシアGPを終えたあと、ランキングトップのロレンソはランキング2番手のペドロサに対して23ポイントの差をつけるのみとなっていた。


 しかし、このチャンピオン争いは思いがけない形で決着した。第17戦オーストラリアGPの決勝レースで、ペドロサが転倒。リタイアを喫したのだ。ロレンソはペドロサ不在のレースを走り切り、2位でフィニッシュすると、MotoGPクラスで2度目のチャンピオンを獲得した。ペドロサとの厳しいタイトル争いを展開したシーズンであったと同時に、全18戦のうち2戦を除いて優勝か2位でフィニッシュするという圧倒的な安定感を見せた年でもあった。


 翌2013年。ロレンソは変わらずヤマハから参戦する。ただ、ドゥカティからヤマハに舞い戻ったロッシが再びチームメイトとなった。そしてまた、ホンダからマルク・マルケスが最高峰クラスにデビューしようとしていた。


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