冬のNYで出会った“ロシア民謡を知らないロシア人” ジョージはなぜ命を落としたのか?

1月6日(月)11時0分 文春オンライン


 徳岡孝夫さんと中野翠さんが合計40本のエッセイを寄せた『 名文見本帖 泣ける話、笑える話 』(文春新書、2012年刊)より、心揺さぶられる「泣ける話」を特別公開。今回は徳岡孝夫さんの「大学町の夜」です。



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 学費も生活費もすべて向こう持ちで、米国の大学院に1年間留学できる。新聞社はその間、留守宅の妻に給料の8割を支給してくれるという。1ドルが360円だった昭和35年という時代、フルブライト基金による全額給費留学は、虹をつかむような話だった。私はそのとき30歳のサツ回り記者。


 あと3ヵ月でお産という妻を南大阪の府営1DKに残し、私は横浜の大桟橋を鹿島立ちした。これを逃がせば二度と海外など行けないと(当時は)思った。頭にチョンマゲを載せ腰に大小を差した77人のサムライが、幕府の修好通商条約批准書を携えて渡米してから、ちょうど100年である。姿こそ違え、覚悟はサムライであった。



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 ニューヨーク州北部の豪雪の降る一帯を、アップステート・ニューヨークと呼ぶ。その一角に、秋には山々の木が金色に紅葉する大学町があった。私はそこの大学院生用の寮に荷を解いた。ルームメイトはオハイオ州から来た、気持ちのいい男だった。


 留学期間の1年を二つに分けよう。それが渡米前からの私の計画だった。


 最初の半年は、教室と図書館と寮を往復し、徹底的に勉強しよう。残る半年は、アメリカとアメリカ人を観察して過そう。旅行もしよう。旅立つ前からそう決めていた。


 前半の半年は、涙ぐましい努力のうちに過ぎた。後半に入って、私は寮を出て、同じ大学に留学中の日本人と2人で大学に近いサウス・クラウス通りに家を1軒借りた。私の負担する家賃は月額30ドルだった。こんなに安ければ、帰国前の大陸横断の旅費が溜まりそうである。当時、同じ大学に留学している日本人は、ほんの数人、私を除く全員が理系の人だった。



 広い居間にポツンとソファが一つ。寝室二つにキッチンと冷蔵庫、2口コンロと簡単な調理用器具付き。地下室の湯が出る位置にバスタブが置いてある。30ドルでそれ以上は望めなかった。


 五大湖の上を吹いて来る湿気を含んだ偏西風が、大雪を降らす。アップステートNYは日本の新潟と並んで世界に二つの「人の住む豪雪地」だった。寒い日には華氏零度になる。しかし家は集中暖房だから、床下から温風が吹き出してくる。



 鉄鍋と電熱コンロを買い、肉屋のオッサンに肉の薄切り法を教え、私は何はさておき町の日本人留学生全員を招き、すき焼きパーティを催した。居間の擦り切れた絨毯に車座になってやった。日本料理屋はニューヨーク市に2軒しかなかった時代である。


 これが好評だったので、元ルームメイトや町に立ち寄った日本人旅行者も招き、わが家は「日本大使館」を僭称するまでになった。すき焼きは週の定例と化し、おいおい常連ができた。その客の中に、誰の友人か同じ大学の学生ジョージがいた。他の米人客と違い、口数少なく物静かな青年だった。


 ビールと食事の後で、各自が居間の好みの位置に座って談論風発する。そういうときジョージは、ソファの隅に掛け、日本語の会話も黙って聞いていた。話すのが嫌いではないようだが、要するに物静かである。



「どんな経歴の人なんだ」


「ロシア人だそうだよ。ブダペストに住んでいたが、一家で西側へ脱出したと聞いたことがあるなあ。家族でアメリカに移住したが両親は離婚し、ぼくは天涯孤独だよと言ったことがある」


 日本人だけのとき、そういう会話があった。「ぼくのお祖父さんは音楽家だと言ったこともある」と思い出す者がいた。


「今度来たとき聞いてみよう」われわれはジョージという名を知っているだけで、誰も彼の姓を知らなかった。



 次に来たとき、誰かが「ジョージ、きみのお祖父さんって何ていう人?」と訊いた。


「うん、スクリャービンというんだ」


 これには驚いた。アレクサンドル・スクリャービン。私はその曲を聴いたことはないが、交響曲を色と組み合わせたり、ロシアの現代音楽に革命を起こした作曲家だとは知っている。


「凄い有名な人じゃないか。きみはまた、どうしてアメリカなんぞに流れてきたんだ」


 問われてジョージはポツリポツリと語った。その日は少しだけ。次に来たときまた少し、といった語り方だった。それを繋ぎ合わせると、だいたい次のような身の上になる。



 世界は東西両陣営に分かれて対立していた。明日にも米ソ間に戦争が始まるかもしれない。現にその年には米側の偵察機U2が領空侵犯したためソ連に撃墜され、予定されていた米ソ首脳会談が取り止めになる事件があった。ハンガリーにいたジョージ一家は深夜ブダペスト郊外の無人地帯を横切って西側に逃げ、米国に亡命した。渡米後に両親は離婚し、ジョージの母親はいまシアトルに住んでいる。


 ジョージは、生まれ育った、幼い記憶の中にあるロシアを、忘れられない。いったん亡命した者の再入国は認められない。ソ連に帰れば、その瞬間に逮捕され、シベリア送りになる。だがジョージの胸の中には、ロシアへの憧れが燃え続けている。


「僕がアルバイトするのは、学校が休みになるたび東欧に戻り、ロシアの周辺をウロウロするための旅費稼ぎなのだ。入れば捕まるから、近付くしか出来ない。だが、ヨーロッパ行きの安い貨物船を見つけるのが大変でね」



 ふーん、母なるロシアって、そんなに恋しくなるものか。国へ帰れない国民。それは日本人には想像のできない感情であり国家だった。


 その数日後、誰か(私だったかもしれない)が、ふと問うた。


「ジョージ、きみロシア民謡知ってるかい」


「知らない」


「カチューシャ、知らない? こんな歌だが」


 日本語で歌ってみせたが、反応は全くなかった。


「それじゃ『赤いサラファン』は? 『ともしび』は?」



 われわれ日本人が声をそろえて歌えるのに、ロシア人がロシア民謡を知らないのだ。幼くしてソ連の勢力圏から逃げ出し、流浪の生活の中で故国を思う歌など習う余暇がなかったのか。「ヴォルガの舟唄」すら知らないというので、誰かの発案でジョージにロシア民謡を教えることにした。


 毎晩集まるわけではないから、歌の授業はあまり進まなかったが、さすがスクリャービンの孫、うたごえ喫茶の店先に立った程度までは習い憶えた。むろん歌詞はすべて日本語であった。ロシア民謡は、窓の外に降る夜の雪によく似合った。



 そうこうするうちに私の留学期間は終わりに近付いた。節約して貯めた資金で私はニューオリンズ回りで西海岸に行く寝台列車の切符を買い、サンフランシスコから再び船で帰国し、新聞社に復帰した。


 何ヵ月いや3年ほどが経った。某日、社へ電話があった。大学町の友からだった。近頃は日本人留学生が増えた、あちこちの大学を回って易しい単位を取り溜める抜け目ないヤツもいるよ、といった話だった。


 ふと思い出して私は尋ねた。



「ジョージ、どうしてる?」


「あいつか。死んだよ」


「エッ、どうして?」


「スコビエに大地震があっただろ。その日、彼はスコビエにいたんだ。可哀想に、運の悪いやつだった」


 言うべき言葉がなかった。私は受話器を置き、しばらく瞑目した。そうか、母なるロシアは、親を慕う子を招き寄せて殺す、そこまで無慈悲な親だったのか。


 当時はユーゴスラビアの町だったスコビエはソ連邦と共に滅び、今はマケドニア共和国の首都になっている。人口50万ほどの古都だが、1963年の大地震で1000人以上の死者を出した。その後、丹下健三の設計指揮により面目を一新したという。



(徳岡 孝夫)

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