激辛カレーの元祖「ボルツ」のいま ブームから30年...都内唯一の店舗を訪れた

2019年1月17日(木)11時0分 Jタウンネット

今から30年ほど前、日本では激辛ブームが起きていた。1986年に煎餅店神田淡平の「激辛」が新語・流行語大賞の銀賞に選ばれるなど、当時の人々は辛さを求めていた。


1973年に産声を上げたカレーハウス「ボルツ」も、辛さを段階で選べるシステムで人気を博し、全国各地に数多くの店舗を展開していた。あれから30年—— すっかり街では見かけなくなったが、東京・神田錦町に今でも営業する店舗を発見。そこにはボルツと共に年月を歩んだ店長の「東京物語」があった。


カレーと癒しの空間で


2019年1月15日現在、激辛ブーム時には代表的だった渋谷と新宿の店舗はない。昔行っていたが、今はその存在を覚えていない。そんな人も多いのではないか。


1月11日、筆者は東京メトロ神保町駅から歩いて数分のボルツ神田店に足を運んだ。


入居しているビルが工事中のため少し見えにくいが、ボルツの看板は健在だ。


店外を撮影していると男性に話しかけられた。「ああ取材の人? 中でちょっと待っててください」—— この優しい男性は店長の倉田茂樹さんだ。


お言葉に甘えて中に入ると昭和で時が止まったかのようなレトロで温かい空間があった。


木の床は歩く度に軋む。コンクリートの硬い道を歩き続けているせいか、軋む音と柔らかい道が足の疲れを抜いてくれる。


程なくすると倉田さんが戻ってきた。筆者が入店したときにお客さんはおらず、早速調理に取りかかってくれた。


メニュー表にはボルツ最大の特徴である辛さの一覧も載っている。マイルドとホット以外は全て料金が増える。生クリーム入りのソフトマイルドから始まり最大で30倍ホットまで辛さは選り取り見取り。


しかし、筆者は辛いものが大の苦手。記事としては30倍ホットに挑み悶絶する姿が好ましいのは承知している。とはいえ、あまりに苦手なので今回は回避してマイルドを注文した。


ライスとルーは別々。福神漬けはもちろん、大根の酢漬けなど4種類の付け合わせがあり、中でも玉ねぎのヨーグルト漬けは辛さを中和してくれるありがたい薬味だ。


今回はチキンに加えて昔ながらにゆでたまごをトッピングした。倉田さんによるとチキン以外にもビーフ、アサリなどがあるものの、どれかが突出した人気があるわけでなくどの具も万遍なく人気があるという。


ごはんにかけて食べる王道スタイルではあるが、ルーはサラサラとしておりとろみは抑えられている。


小麦粉とカレー粉は使用しないボルツのカレー。味のアクセントは何と言ってもスパイスだ。10数種類のスパイスを独自にブレンドされており、程よい硬さのチキンからあふれ出る旨味にシャープで優しい刺激が加わる。思わず天井を見上げて美味しさに酔ってしまう。


マイルドを注文したものの、途中から汗が止まらず辛さにやられてしまった。そんな時はヨーグルトにつけた玉ねぎが助けてくれる。辛さを鎮めるだけでなく、より旨味を引き立ててご飯が進んでしまうのだ。


激辛ブームの申し子と聞いていたが、計算されたこだわりのカレーの美味しさこそがボルツの特徴のようだ。


カレーと歩んだ38年


食後、倉田さんから詳しい話を聞くことができた。


現在、ボルツなどが入居するビルとなっているが、ここが倉田さんの実家。神田錦町で育ち変わりゆく東京を長く見つめてきた。


今では考えられないが、この地域の道路で野球をした記憶、学校を休んで行ったビートルズの来日公演、学士会館でのアルバイト—— 数々の思い出を語ってくれた。


「隅田川の花火が前の2階の建物から見えたんだよ。本当だよ」



この場所に長らく居続けると変わってしまうことも多い。その中でボルツ神田店は1980年の誕生から38年変わらずに営業している。


元々はサラリーマンだった倉田さんだが、1975年にボルツの運営母体であるボルツ・ジャパン(現在の日本レストランシステム)に入社した。学生時代にアルバイトしていた学士会館のコックが当時のボルツ・ジャパンにいたことが決め手だ。


独立する5年までの間にボルツを数店舗、新横浜や藤沢の郊外レストランで勤務。学んだことは今でも生きている。


「テレビでも脱サラして飲食やる人を見るけど、あれが一番失敗するね」



コーヒーの挽き方や素材へのこだわりが強い人が多いとも指摘。その上で、


「コミュニケーションが一番大事ね」



と語った。技術も大事だが接客である以上、コミュニケーションが最も大事だと独立前に学んだ。


ボルツの屋号は日本レストランシステムからの暖簾分け。日本レストランシステムが運営していた店舗はなくなり、現在は神田店などごくわずかが残るのみ。それでもブーム30年が経った今でも営業し続けていることから、倉田さんの方針は間違っていないようだ。


しかし、68歳の倉田さんは、


「あと4〜5年でここはね」



と自らの引き際についても話した。近年の異常な猛暑や体力の消耗、精神的な問題もあるという。


「今はバブルの3分の1程度かな。昔は近所にNHKの取材が来た時に物凄い人だかりだったけど」



今、ボルツ神田店の前は閑散としていて人通りが少ない。こうした中で営業を続ける難しさもあるようだ。それでもまたお客さんに沢山来て欲しいと願う倉田さん。そこには大きな障害があった。


「ボルツはとっくに世の中から消えたものだと思ってるんですよ。この間もボルツの看板見て入ってきて『ここって渋谷とかにあったボルツ?』って聞くんです。なくなっていると勘違いしている」



ボルツはまだ生きている—— 生まれ育った街で作り続けるカレーをより多くの人に食べてほしい。倉田さんの何よりの願いなのかもしれない。


(Jタウンネット編集部 大山雄也)

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