非ヴィジュアル系のUP-BEATが“GLAYの原型”と呼ばれる理由と稀有な音楽性

2024年1月20日(土)6時0分 JBpress

(冬将軍:音楽ライター)

90年代から現在までの、さまざまなヴィジュアル系アーティストにスポットを当て、その魅力やそこに纏わるエピソードを紹介していくコラム。今回は非ヴィジュアル系バンドながらヴィジュアル系シーンへ大きく影響力を与えたUP-BEATを紹介。“ポストBOØWY”と呼ばれながらも、独自のバンドスタイルを切り拓いていたバンドの魅力とは?(JBpress)


多くのヴィジュアル系バンドに影響をもたらす

 ヴィジュアル系というシーンを作った、影響を及ぼしたバンドすべてがヴィジュアル系バンドなのかと言ったらそういうわけでもない。X JAPANやLUNA SEAは一般的にヴィジュアル系のレジェンドとして広く認識されているが、BUCK-TICKはその括りとは一線を置かれていたし、GLAYもその枠に収まりきらないほどの幅広い支持層を得てきた。

 本連載の初回で取り上げたBOØWYもそうだ。私自身、BOØWYをヴィジュアル系の括りに入れるつもりなどない。ただ、彼らが確立した“カッコつけの美学”が後世へのヴィジュアル系シーンへの影響力は計り知れず、ヴィジュアル系史を語る上でBOØWYを起点としたほうがわかりやすいという理由で取り上げた。

 前々回のDEAD ENDもヴィジュアル系バンドなのかといえば違うだろう。しかしながらジャパメタからヴィジュアル系へと移り変わる時代の渦中にいたバンドである。そうやって、ヴィジュアル系シーンへの影響力が大きい非ヴィジュアル系バンドは多くいる。

 今回取り上げるUP-BEATもまたヴィジュアル系シーンへ大きく影響力を与えた非ヴィジュアル系バンドだ。PENICILLINのボーカリスト、HAKUEIやcali≠gariのギタリスト、桜井青など、UP-BEATからの影響を公言するヴィジュアル系バンドマンは多い。

 2ndアルバム『inner ocean』の衝撃。1曲目「Time Bomb」の強靭なビートがダンスビートに変わる「Nervous Breakdown」の流れは鳥肌モノだ。同曲の緻密なギターアレンジにゾクゾクする。本作がリリースされたのは1987年9月15日。10日前の9月5日にBOØWY『PSHYCHOPATH』がリリースされたばかりだった。

 UP-BEATは活動中から“ポストBOØWY”の代表格バンドというイメージを強く持たれてきた。ニューウェイヴ影響下の音楽性はもとより、フロントマンである広石武彦と氷室京介のヘアメイクが同じ人だったということも、そうしたイメージを強くしていた。そして後世では“GLAYの原型”という評価もある。それはなぜだろうか。“ポストBOØWY”と呼ばれながらも、独自のバンドスタイルを切り拓いていたUP-BEATについて紐解いていきたい。


UP-BEATが目指していたもの

 UP-BEATは1981年に福岡県北九州市にて結成。1986年5月、シングル「Kiss… いきなり天国」でメジャーデビューを果たし、1987年7月リリースのシングル「Kiss in the moonlight」がフジテレビ系ドラマ『同級生は13歳』主題歌に起用され大ヒット。ボーカル、広石武彦の甘いマスクと端正なルックス、ロックスターのオーラを纏ったクールな佇まいで男女問わず多くの者を魅了し、UKニューウェイヴをかぐわすメロディと空間系ツインギターで人気を博した。

 結成当時はup-beat undergroundというバンド名だった。これはラモーンズの楽曲「Do You Remember Rock and Roll Radio?」の歌詞〈Upbeat, Shindig and Ed Sullivan too?〉と、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを合わせたもので、洋楽志向の音楽性をうかがわせるものだった。ARBやルースターズといった、“めんたいロック”と呼ばれるバンドを多く送り出した北九州の地から、その枠に囚われないアイデンティティを目指してのものだったと思われる。

 メジャーデビュー曲「Kiss… いきなり天国」は、ブラックミュージックに大きく影響を受けている大沢誉志幸が作曲し、作詞はめんたいロックの始祖、サンハウスの柴山俊之である。もちろんこれはレコード会社の意向によるもので、バンドが目指していた音楽とは異なる方向性ではあったが、プロデューサーのホッピー神山の手によって、ロック寄りなものに仕上がったという。

 UP-BEATの出世作というべき「Kiss in the moonlight」は、宙に広がっていく2本のギターに乗せて、柔らかいメロディと優しいボーカルがそよぐ楽曲。UKテイストのサウンドがベースにありつつも、しっかり土着した歌謡性のあるメロディが心地よい。

 同曲をプロデュースしたのは、佐久間正英である。佐久間は同曲が収録された2ndアルバム『inner ocean』(1987年9月リリース)、3rdアルバム『HERMIT COMPLEX』(1988年10月リリース)、4thアルバム『UNDER THE SUN』(1989年10月リリース)と3枚のアルバムをプロデュースし、UP-BEATのニューウェイヴサウンドに溢れたビートロックを確立させた立役者である。

 佐久間といえば、言わずもがなBOØWYを手掛け、のちにGLAYの音楽に欠かせない存在となるプロデューサーである。

 先に述べたように、UP-BEATを“ポストBOØWY”と言う者は多かったし、“GLAYの原型”だと表する声もある。尤も、GLAYもBOØWYフォロワーであることは間違いない。不良のイメージだったロックをスタイリッシュなものにしたBOØWY。老若男女問わずに聴いて歌えるロックバンド、GLAY。BOØWYのクールに粧し込んだ“ノれる”ビートロックを、ありのまま“聴かせる”歌モノビートロックへと昇華したのがGLAYだ。そして、そこを繋いだ存在がUP-BEATである。


UP-BEATがGLAYの原型と呼ばれる理由

 佐久間はGLAYの第一印象を後年インタビューにて「UP BEATとBOØWYを混ぜた感じだと思った」と、振り返っているのが興味深い。その記事を読んだとき、GLAYの佐久間プロデュースの初シングル「Freeze my love」(1995年)リリース時、同曲のミュージックビデオを見た私の友人が「UP-BEATみたいなバンドだな」と言っていたことを思い出した。ブレイク前のGLAYを人に説明するとき、BOØWYの名前を出すことはよく見受けられたし、私自身もそう言っていたのだが、その友人の言葉にハッとしたものだ。GLAYの従来のバンドとは異なるスマートで優等生的な佇まいとリアルな歌詞は、そうだ、UP-BEATなのだと。

 実際、GLAYはTAKUROやJIROを筆頭にUP-BEATからの影響を公言している。有名なのはGLAYのメジャーデビューアルバム『SPEED POP』(1995年3月リリース)ライナーノーツに関しての逸話だろう。

 UP-BEAT『HERMIT COMPLEX』のブックレットに掲載された市川清師によるライナーノーツを読んだTAKUROが、メジャーデビューしたら市川にライナーノーツを書いてもらいたいと思い、『SPEED POP』でそれが実現している。

 さらにTAKUROはUP-BEATからの影響について、「美メロの楽曲に残酷な歌詞を乗せるのはUP-BEATの広石武彦さんなどから学びました」などと公言している。「VANITY -BRANDNEW-」(1986年10月リリースシングル)における〈君の美しさに翳りが見え始め 君の心は偽りで満たされて〉〈君の作り笑顔は絶望的に綺麗だね〉と、マイナー調の美しいメロディに皮肉を乗せているのは、まさにその象徴とも言えるものではないだろうか。こうした広石の純文学的な表現はTAKUROの作詞家性に大きな影響を与えている。

 広石の書く詞は本人曰く“負け犬”であり、横文字を多用しながらカッコつけの美学を確立したBOØWYとは相反するものでもある。U2的な壮大なサウンドプロダクトを取り入れた名曲「Blind Age」(1988年5月リリースシングル)では〈息もできぬ街の交差点 誰もが生きる支えを探してる〉と迷いを歌っているし、先述のアルバム『HERMIT COMPLEX』のタイトルチューン「HERMIT COMPLEX 〜世捨て人の憂鬱〜」では冒頭から〈致命的なニヒリスト 俺は世捨て人なのさ〉と歌い出し、〈Keep Down〉を連呼しながら〈気持ち抑えろ/何も考えず 調子合わせていればいいさ〉〈まくしたてても/何も変わらないさ 配られたカード こなすだけさ〉と歌っている。愛や恋、夢と希望の歌に溢れていたバブル期へと向かう時代に、ここまでネガティブな歌詞などそうはない。

 こうした苦悩や葛藤を曝け出し、逃げずに真っ向から己に問いかけていく姿勢は、ありのままの気持ちを綴るGLAYの歌に引き継がれているのだ。BOØWYのカッコつけの美学は後年の中二病に通ずるヴィジュアル系ロックの歌詞の世界に繋がっていくわけだが、それとは真逆の潮流があった。ヴィジュアル系譜で考えるとGLAYの純文学的な歌詞は突然変異のように思えるが、UP-BEATという偉大な先駆者がいたのである。

 最後にUP-BEATが持つオリジナリティに溢れた音楽性、楽曲を紹介しながら、本稿を締めたい。


UP-BEATの稀有な音楽性

 UP-BEATの楽曲で大きく特徴的なのものは転調だろう。現代のJ-POPで見られる、Cメロや繰り返しのサビで転調するというものでもなく、1998年1月リリースの5枚目のシングル「NO SIDE ACTION」に見られるように、サビでも転調を繰り返している。こうしたある種の音楽的なセオリーを無視したインパクトのある転調は近年、ボカロ曲や地下アイドル曲などに多用されているのだが、90年代の早くからこうした手法を用いていることは興味深い。おそらく狙ったというよりも自然とそうなったとも思える。

 初期の名曲と題されるのは、1987年2月14日リリースの3枚目のシングル「PRISONER of LOVE」。アルバム未収録であったり、「Kiss in the moonlight」前のシングルになるため、どうしても影の薄い存在になっていることは否めない。しかしながら、シンセベースと対照的に全編にわたって入っているネオアコ風のアコースティックギターなど、サイケデリックな香りがするイカしたロックナンバーである。

『UNDER THE SUN』は、前作『HERMIT COMPLEX』でUP-BEAT流ニューウェイヴロックを確立した彼らが更なる進化を目指したアルバムだ。1曲目の表題曲から咽び泣くような岩永凡のギターが最高だ。

 しかしながら、1990年にシングル「Rainy Valentine」とベストアルバム『HAMMER MUSIC』(共に2月リリース)を最後に、音楽性の相違を理由にギターの東川真二、ベースの水江慎一郎が脱退。広石と岩永、そしてドラムの嶋田祐一という3人編成での活動となる。

 5人のUP-BEAT、『HERMIT COMPLEX』の人気が高いが、3人時代のより自由度の広がった音楽性も心地いいものだ。

 1995年8月30日、UP-BEATは渋谷公会堂でのライブをもって解散した。

筆者:冬将軍

JBpress

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