『べらぼう』「非常の人」平賀源内、エレキテルを復元、戯作の開祖ともされる天才の波乱の生涯、蔦重との接点は?

2025年1月20日(月)6時0分 JBpress

(鷹橋忍:ライター)

大河ドラマ『べらぼう』において、安田顕が演じる平賀源内を取り上げたい。


変化龍の如し

 平賀源内の名で知られているが、源内は通称で、諱は国倫(くにとも)、字(あざな)は子彝(しい)という(ここでは、源内と表記)。

 本草学(薬用となる植物や鉱物を研究する薬物学)・物産学者、鉱山技師、戯作者、浄瑠璃作者、発明家など、自ら「変化龍の如し」と称したようにいくつもの顔をもち、西洋風の油絵も描く源内は、戯作者としては風来山人(ふうらいさんじん)、天竺浪人(てんじくろうにん)、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくちきがい)、油絵や物産学においては鳩溪(きゅうけい)と号するなど、名や号を使い分けた。

 ドラマで蔦屋重三郎に称したように、貧家銭内(ひんかぜにない)と、戯れに名乗ったこともあるという(以上、芳賀徹『平賀源内』)。

 その源内が生まれたのは、八代将軍・徳川吉宗の治世だった享保13年(1728)とされる。

 寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎よりも、22歳年上となる。

 生地は、讃岐国寒川郡志度浦(香川県さぬき市志度)で、父は高松藩の米蔵番を務める白石茂左衛門(良房)、母は山下氏の娘だ。

 父は、「一人扶持切米三石」という下級武士であったが、農業を本業としていたと考えられており、比較的裕福だったようである。


「天狗小僧」と異名される

 源内は数えで12歳の時に、「御神酒天神」と称される、天神が描かれた掛け軸に御神酒を供えると、天神の顔が赤く変わる「からくり」を作ったと伝えられる。

 幼い頃から発想力が豊かで、才気活発だったのだろう。

 源内は、「天狗小僧」と異名されたという。

 父・白石茂左衛門は教育熱心で、源内は13歳の時から、儒学や本草学を学んだ(新戸雅章『江戸の科学者』)。

 源内は本草学に傾倒していく。長じて、各方面で才能を発揮し、名を上げるようになっても、本草学者だという自負を強く抱いていたと考えられている(土井康弘『本草学者 平賀源内』)。


故郷を離れ、江戸へ

 寛延2年(1749)、父・白石茂左衛門が亡くなり、源内が22歳で家督を相続した。

 家督を継いだ源内は、敬愛する遠祖の「平賀」姓を名乗るようになる。

 亡父と同じく源内も高松藩に米蔵番として出仕した後、宝暦2年(1752)年、藩の許可を得て、長崎に遊学した。

 長崎での見聞に刺激を受けたのか、源内は江戸行きを望むようになったという。

 源内は宝暦4年(1754)に藩を退役し、妹・里与に婿養子を取らせて家督を譲ると、宝暦6年(1756)、29歳の時、故郷をあとにした。この間に、オランダ製の器械を模写して、磁針器(方位磁石)、量程器(万歩計)を制作したという。

 故郷を出た源内は、大坂にて名高い医師で本草学者の戸田旭山(とだ きょくざん)に師事した。その後、江戸に出て、同年に本草学の大家である田村藍水(たむら らんすい)に入門し、頭角を現わしていく。


薬品会と盟友・杉田玄白

 田村藍水の門に入った源内が第一に行なったのは、薬品会(やくひんえ/物産会とも)の発案だったという(芳賀徹『平賀源内』)。

 薬品会(物産会)とは、全国各地の薬種や物産の展示交換会のことで、博覧会の先駆けともいわれる。

 源内の発案は、実現された。

 宝暦7年(1751)7月、江戸湯島にて、第1回「東都薬品会」が開催され、薬種や物産の有益な情報交換の場となった。

 第1回の会主は師の田村藍水だったが、会を取り仕切ったのは源内だったといわれる。

 宝暦9年(1759)に開催された第3回からは、源内が会主を務めた。

 薬品会を通じて源内の交遊は広がり、『解体新書』の訳業で知られる山中聡が演じる杉田玄白と知り合い、生涯の盟友となっている(新戸雅章『平賀源内 「非常の人」の生涯』)。


『根南志具佐』には、二代目瀬川菊之丞も登場

 江戸で活躍が伝わったのか、源内は宝暦9年(1759)9月、32歳の時、再び高松藩に召し抱えらたが、宝暦11年(1761)に辞職している。

 高松藩を辞した源内は、宝暦12年(1762)閏4月、30余国から1300余点におよぶ展示物を集めた第5回東都薬品会を開催し、盛況を収めた。

 翌宝暦13年(1763)7月に、源内はこの薬品会の出品物のなかから選んだ360種を分類、解説した『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を刊行。

 同年11月には、戯作(江戸時代後期の通俗的な小説類の総称)である『根南志具佐(ねなしぐさ)』、『風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)』も刊行し、人気を博した。

 ちなみに、ドラマの第1回「ありがた山の寒がらす」において、蔦屋重三郎が、愛希れいか演じる朝顔に読み聞かせていたのは、『根南志具佐』である。

『根南志具佐』には、花柳寿楽が演じた二代目瀬川菊之丞が登場し、地獄の閻魔大王に恋される。

 当時、大人気の若女形であった瀬川菊之丞は、源内も贔屓にしていた。

 生涯独身で、女嫌いを公言していたこともあり、源内は瀬川菊之丞の愛人と噂されていたという(新戸雅章『平賀源内 「非常の人」の生涯』)。


蔦屋重三郎との接点は?

 人気作家となった源内は明和元年(1764)、37歳の時、武蔵国秩父郡の両神山で、当時は極めて貴重だった石綿(アスベスト)を発見(城福勇 『平賀源内』)。

 これを用いて火浣布(耐火織物)を作り、幕府に献上したが、産業化はできなかった。

 その後、金山採掘に着手するも、失敗に終わった。

 明和6年(1769)には、歯磨き粉「嗽石香(そうせきこう)」の引き札(広告チラシ)を依頼され、宣伝文句を考えている。コピーライターとしての才にも、恵まれていたのだろう。

 明和7年(1770)1月には、福内鬼外の筆名で作った浄瑠璃『神霊矢口渡』が初演され、同年10月には、二度目の長崎遊学に出ている。

 明和8年(1771)5月頃には、西洋婦人画を描いたという。

 遊学後、今度は鉱山の開発事業に取り組むが、やがて撤退に追い込まれた。

 安永3年(1774)、源内はドラマでも描かれたように、蔦屋重三郎が、「改め役」を務めた『細見嗚呼御江戸』の序文を書いている(筆名は福内鬼外)。

 だが、源内に序文を依頼し、実現させたのが、蔦屋重三郎なのか、他の誰かなのかはわかっていないという(田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』)。

 いずれにせよ、この時、蔦重は25歳、源内は47歳になっていた。


エレキテルと源内

 二度目の長崎遊学の際、源内は破損の著しいエレキテル(摩擦起電機)を入手したと考えられている。

 エレキテルの修理に取り組んだ源内は、安永5年(1776)11月、日本ではじめて復元に成功する。

 エレキテルを見世物にすると、大人気となった。

 源内の名も一躍、全国に轟いたが、やがてエレキテルは飽きられてしまう。

 そして、エレキテルの復元の成功から3年後、衝撃的な事件が勃発する。


非常の人

 安永8年(1779)11月21日、源内は神田橋本町の居宅において、殺傷事件を起こした。

 小伝馬町の牢に入った源内は、同年12月18日、破傷風のため、52歳で獄中死している。

 事件については不明な点が多く、真相はわかっていない。

 人気狂歌師で、源内の友人・桐谷健太が演じる大田南畝(おおた なんぽ)の随筆『一話一言(いちわいちげん)』巻之五によれば、源内の遺体は妹・里与の婿に引き渡された(里与は、すでに死去)。

 葬儀は友人や門人によって、行なわれた。

 盟友の杉田玄白は、私財を以て墓碑を建てようとし、源内の生涯の事績を称えた「処士鳩渓墓碑銘」を撰んだ。

 その結びの句「嗟(ああ)非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」からは、杉田玄白の友への深い哀悼の意と、「非常の人」であった平賀源内の悲哀を感じさせる。

 源内は密かに牢から逃され、天寿を全うしたとする説も存在する。

 できるなら、こちらが真実であってほしいものである。

筆者:鷹橋 忍

JBpress

「べらぼう」をもっと詳しく

「べらぼう」のニュース

「べらぼう」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ