怨霊になった道真はいかに神として復活したのか?

1月24日(金)6時0分 JBpress

 醍醐天皇の治世下で右大臣となったものの、その直後、左大臣時平の讒言(ざんげん)により大宰府へ左遷され、その地で没した菅原道真。政争の敗者となった道真は死後「怨霊」として恐れられ、ついには「天神様」として復活を遂げた——。日本大学文理学部教授・関幸彦氏が英雄の「蘇り方」に迫る。(JBpress)

(※)本稿は『英雄伝説の日本史』(関幸彦著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。


敗者の復活

 敗れし者の記憶、伝説にはそんな側面もあるようだ。政争や戦乱の敗者が伝説を介し、復活・再生する。その蘇り方は決して直線的ではない。多分に屈折した虚像をともなう場合もある。

 本書の主題は、この歴史の敗者たちの姿をふくめ、伝説化した英雄たちを語ることにある。歴史にちりばめられた伝説の記憶への追求でもある。

 記憶としての伝説が含意するニュアンスはたしかに複雑だ。時代の本質が凍結したまま伝説は歴史の古層に沈殿している。いうまでもなく伝説とは、ある史実が、加工され肥大化されたものだろう。

 その限りでは、伝説は時代とともに変化する。史実との距離はむろん遠くなる。本書の目的は、そうした伝説の諸相を語ることにある。本書のバックグラウンドをなす中世は、伝説創成の時代だった。

 怨霊伝説しかり、調伏伝説しかり、種々の形態の伝説が顔をそろえる段階といえそうだ。


荒ぶる雷神

 道真が観自在天神(かんじざいてんじん)として祭られ、これが畏怖の対象から学問神へと転換されるのは、平安末期のことだ。中世をへて江戸期の寺子屋ではこぞって、この道真を学問の祖神として崇めた。

 罪なくして時平の讒言により左遷先で死んだ道真を、中世は復権させ北野社に祭ることで、怨霊鎮撫の手だてとした。が、近世は、“さわらぬ神”から“さわる神”へと道真を導くことになる。

 その限りでは道真=神童観の本格的登場も、これと軌を一にしている。荒ぶる雷神という側面とは別に、学問神としての位置づけが多くなると、道真は生まれながらに神の子だったとの伝説が強調されるようになる。


敗者復活

 次に、伝説の原点をさぐることとしよう。幾つかの原点の一つが『扶桑略記』に散見する。例えば、没後80年を経過した永観2年(984)6月、太宰府の安楽寺より道真の霊が自己の心中を語った託宣がもたらされた。

 それによると道真は自在天宮に住し、「随身伴党一万二千八百余人」を駆使し、世に背き恨みをふくむ者の「霊魂」を参集し、復活するのだという。

 またそこには怨霊による種々の異変で「公家」もその責任に堪えかね、改元の方策を講じるまでに至ったこと、さらには配流詔勅の作人に天罰を与え、内裏炎上もわが身の所為なることが語られている。

 道真没後の歴史的諸事件を付会させた話だろうが、当時の貴族をふくめ多くの世人が、道真の怨霊に怖れを抱いていたあかしでもあった。

 おもしろいのは『扶桑略記』の記事で、「愁緒(しゅうしょ)」をふくむ霊として「上は崇道(すどう)天皇より下は菅家小臣に至るまで帝釈宮を去らず」と語っている場面である。崇道天皇とはもちろん、早良(さわら)親王のことだ。

 桓武天皇の同母弟で、藤原種継暗殺事件に連座して配流され、憤死した人物だ。桓武はこの早良親王の怨霊に悩まされ続けた。

 平安時代は皮肉ながら、この怨霊への不安と同居するなかでスタートした。政争の敗者が怨みをふくみ、死後怨霊となり、社会や個人に危害を加えるとの考え方が広まり、これを慰撫・鎮撫するための祭りが御霊会(ごりょうえ)だった。

 御霊とはその怨霊への畏敬の念の表現だが、貞観5年(863)京都の神泉苑(しんせんえん)での御霊会がその始まりとされる。

『三代実録』によれば、ここで御霊とされた人々は、崇道天皇・伊予親王・藤原夫人(伊予親王の母、吉子)・観察使(薬子の兄、藤原仲成)・橘逸勢(承和の変で配流)・文室宮田麻呂(承和10年、陰謀加担で配流、死没)の6名で、いずれも政争敗死者だった。

 9世紀後半以降における御霊信仰の盛行を前史として、道真の怨霊問題が取り沙汰されたわけで、この点の確認が必要だろう。

 道真もふくめ、政争での敗者たちは民衆を介し、怨霊という形で再生する。敗者を追いやる勝者の良心の呵責が、怨霊への恐怖をはぐくむこともあったろう。

「天に口なし、人をして語らしむ」とは中国の故事だが、敗者が歴史において復活する状況には、無謀な権力への抵抗として、民衆を介し歴史に訴える、そんな意味があったのだろう。

 中世にはこの怨霊が武人・武士にまで波及し、非業の死を遂げた人々が復権をとげる場面が多く見られることに留意したい。

 道真が怨霊としてかまびすしく云々されるのは、延喜8年(908)の藤原菅根の死没以後のようだ。その死は怨霊の仕業と風聞された。これに追いうちをかけるように翌年、当の藤原時平も没する。


「天神様」となった道真

 道真の霊が恐れられるようになったのは、延長元年(923)、藤原時平の甥、皇太子保明親王の死が大きかった。「菅帥の霊魂、宿忿のなすところ」(『日本紀略』同年3月21日条)とは、その端的な表現だろう。

 これに拍車をかけたのがその7年後の延長8年の清涼殿の落雷事件、そしてこれを引き金とする醍醐天皇の死没という一連の偶発的事件だった。

 道真が「天神様」として祭られるのは、それから20数年をへた天暦元年(947)のことだった。北野天満自在天神宮の建立である。だが、道真が「天神様」となるには、この間における大きな事件があった。

 一つは天慶の乱である。将門そして純友の乱が当時の貴族層に与えた影響は、はかりしれないものがあった。当該期の諸史料をひもとけば、頻発する大地震・飢餓・疫病がこの道真の怨霊によるものであり、天慶の乱もまたその延長とされていたことがわかる。

 『将門記』で将門が上野国府で東国(坂東)独立宣言ともいうべき「新皇」の詔を得たおりに、八幡神とこの天神(道真)を登場させていることは重要だろう。敗者としての道真が天神として復活し、「新皇」たる将門をかつぎ出すとの構図を設定できるからだ。

『将門記』作者にとっては、畏怖の対象となっていた道真の霊を将門の乱と結合させたのは、自然の解釈だったのかもしれない。いずれにしても、天慶の乱は道真の天神信仰成立に一つの画期をなしたことは疑いない。


志多羅神事件

 そしてもう一つの事件である。天慶の乱の鎮圧後4年を経過した天慶8年(945)7月、都では、東西の国々から諸神がいっせいに入京するという風聞が広がった(『本朝世紀』)。有名な志多羅神事件だ。数百人の民衆にかつがれた志多羅神が入京するのだという。

 三基の神輿の第一のものには、「自在天神」の額が付せられていた(『吏部王記』)。はるか山陽道をへて九州・筑紫の地から送られてきたものだった。指摘されているように、こうした民衆的宗教運動には天神としての道真を背負うことで、宗教的ファナティックな感情を王権の中枢京都に伝達し、当時の政治政策への庶民の抵抗を示そうとしたとされる。

 ともかく、道真が志多羅神入洛事件にもかかわりを有したことは留意されるべきだろう。いずれにしても、道真が天神様に定着し、これが広く後世伝説化するにさいしては、天慶年間における2つの事件、将門の乱と志多羅神事件が大きな画期となったことは、重要だった。


八幡神と天神

『将門記』には天慶2年(939)12月上野国府を占領したおり、将門のもとへ八幡大菩薩の使者と称する巫女が登場し、帝位を授ける場面がある。

「朕が位を蔭子(おんし)平将門に授け奉る」と。八幡神とともに位記(位階を授けるとき与える文書)の奉者として、「左大臣正二位菅原朝臣の霊魂」が登場する。八幡神と天神2つながら将門を「新皇」として認定すべく立ち現れている。

 11世紀の成立とされる『将門記』はこの二神を登場させることで、坂東の独立宣言とした。つまり京都の天皇(朱雀)に対比されるべき新皇(将門)の創出とは、新王朝の樹立ではなく、日本国の坂東地域の分与という意識が強かったようだ。

 それゆえに本来の天皇=「本皇」の存在を認めたうえで、将門は自らを「新皇」と称した。この「新皇」にふさわしい神々、これは天照大神よりは如来部の次位に位置する菩薩部の仏が、ふさわしいとされたにちがいない。それは武神たる八幡神ということになる。

 この武神(八幡大菩薩)を「新皇」の守護神として迎えること、『将門記』作者が意図したものは、こんなところだったろう。しかもこれに加え、親切にも天神まで将門に味方する念の入れようだ。

 この時期、道真の怨霊は依然として人々の間に大きな恐怖を巻きおこしていた。国家への反逆を助長するエネルギーはすべて天神の霊威の仕業とされた。「延喜」という年号を「延長」に改元させたのも、道真の怨霊のゆえであった。

 道真(天神)が担った役割とは、王権と敵対することも辞さない姿勢を示すということだろう。自己を敗者に追い込んだ王権への復讐、そのための反逆者への与同は当然の論理だった。

筆者:関 幸彦

JBpress

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