『光る君へ』秋山竜次演じる藤原実資の生涯、道長との関係、『小右記』とは?
2024年1月29日(月)8時0分 JBpress
今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、登場するたびに独特の存在感を発揮し、視聴者を釘付けにする、秋山竜次が演じる藤原実資を取り上げたい。
文=鷹橋 忍
道長との関係は?
藤原実資は天徳元年(957)に、藤原斉敏の四男として生まれた。
康保3年(966)生まれの藤原道長より、9歳年上である。
実資の祖父は藤原実頼といい、朱雀天皇の摂政と関白をつとめ、いわゆる「摂関政治」を確立した藤原忠平の長男である。
なお、道長の祖父・藤原師輔(藤原忠平の二男)は、実資の祖父・実頼の異母弟であり、実資と道長の関係は「はとこ」にあたる。
90歳の長寿をまっとう
実資の祖父・藤原実頼は、比叡山麓の「小野」の地に隠棲したことから「小野宮」と称された惟喬親王(文徳天皇の皇子)の邸宅であった「小野宮第」を本邸とした。
そのため、実頼の一族は「小野宮流」と呼ばれる。
実資は父・藤原斉敏が早世したため、祖父・実頼の養子となり、小野宮第をはじめとする莫大な財産を伝領した。
実資は名門出身で有能、しかも人柄も優れているといわれ、坂東巳之助が演じる円融天皇、本郷奏多が演じる花山天皇、塩野瑛久が演じる一条天皇と三代の天皇に、蔵人頭として仕えている。
参議、権中納言、大納言と進み、治安元年(1021)、65歳のとき、右府とも呼ばれる右大臣にまで出世し、以後、死去するまでその地位にあった。
有職故実に精通し、「賢人右府」と称えられ、永承元年(1046)、数えで90歳という長寿をまっとうし、この世を去っている。
『小右記』と呼ばれる理由は?
実資は、日記『小右記』を残したことでも知られる。
『小右記』は、宮廷の政務や儀式の様子などが、詳細に記録された日記だ。
逸文が多く、欠落している部分もあるが、それを含めると、日記の期間は貞元2年(977)から長久元年(1040)まで、実資の年齢でいうと、21歳から84歳までの63年にわたる(
実資が「小野宮右大臣」、あるいは、「小野宮右府」と呼ばれていたため、当初は『小野宮右大臣記』、あるいは『小野宮右府記』と称されていたが、それが省略されて『小右記』となったという。
道長が我が世の春を謳ったとされる
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
(この世を、我が世と思う。望月(満月)が欠けることもないと思うから)
という有名な『望月の歌』を書きとめたのも、『小右記』である(寛仁2年(1018)10月16日条)。
道長に迎合せず
『小右記』には、道長の言動に対する、鋭い批判が随所に見受けられる。
だが、『光る君へ』の時代考証を務める倉本一宏氏は、実資は道長を嫌っていたのではないという。
実資は、自分は「道長の臣」ではなく、天皇や国家に仕える「朝廷の臣」だという強い信念をもち、道長への批判がなされるのも、天皇や朝廷を尊重しない場合に限られると述べている(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。
道長も、有職故実に精通し実務能力に長けた実資を重視した。
道長の嫡男・渡邊圭祐が演じる藤原頼通も、父・道長の引退にともない寛仁元年(1017)に、26歳で摂政の座に就くと、実資を頼ったという。
二人の正妻
次に実資の妻を、ご紹介したい。
実資には女性を好んだという逸話が残り、何人かの妻がいたが、社会的に正妻と認められたのは源惟正の娘と、婉子女王の二人だという(増田繁夫『平安貴族の結婚・愛情・性愛—多妻制社会の男と女』)。
まずは、一人目の正妻である源惟正の娘からみていこう。
実資が、源惟正の娘と結婚したのは、天延元年(973)8月〜翌天延2年(974)10月ごろだとみられている。
実資は17歳、あるいは18歳で、初めての結婚だったと思われる。源惟正は文徳天皇の玄孫にあたり、二条大路に大邸宅を所有する上級貴族だった(繁田信一『かぐや姫の結婚—日記が語る平安姫君の縁談事情』)。
実資と妻の間には、寛和元年(985)4月に女児が誕生した。
ところが、妻は翌寛和2年(986)5月に、娘も正暦元年(990)に6歳で亡くなってしまった。
婉子女王を射止め、ライバルに羨ましがられた?
実資の二人目の正妻となったのは、婉子女王である。
婉子女王の父は為平親王、母は醍醐天皇の皇子である源高明の娘である。「女王」と称されるのは、皇子の娘で天皇の孫娘だからだという(繁田信一『『源氏物語』のリアル 紫式部を取り巻く貴族たちの実像』)。
婉子女王は花山天皇の女御で、寛和元年(985)12月、14歳のときに入内した。
『栄花物語』巻第二「花山たづぬる中納言」には、「いみじううつくしくおはします」と評判の女性で、花山天皇から大変に寵愛されたことが記されている。
ところが、翌寛和2年(986)6月、花山天皇は出家し、譲位したため、婉子女王も後宮を出た。
『大鏡』第三「右大臣師輔」には、中古三十六歌仙の一人である藤原道信(太政大臣藤原為光の子)が婉子女王に便りを送っていたことが記されているが、婉子女王は正暦4年(993)ごろ、実資と結婚した。
藤原道信は
うれしきは いかばかりかは思うらん 憂きは身にしむ心地こそすれ
(恋を得たあなたは、どれほど嬉しいことでしょう。恋を失った私は、我が身の情けなさが身に染みます)
という歌を実資に届けさせたという(『栄花物語』巻第四「みはてぬゆめ」 『栄花物語① 新編日本古典文学集31』校注・訳 秋山虔 山中裕 池田尚隆 福永武彦』)。
藤原道信は婉子女王と結婚した実資を、羨んだのだろうか。
亡き婉子女王への純愛?
子宝には恵まれなかったが、実資と婉子女王の夫婦仲は良好であったといわれる。
だが、二人の夫婦生活は5年で終わりを告げた。婉子女王が長徳4年(998)、27歳で死去してしまったからだ。
以後、実資は別の女性に子を産ませることはあっても、正妻をおくことはなかった。
『小右記』寛仁元年(1017)7月11日条によれば、当時61歳の実資は、玉置玲央が演じる藤原道兼(道長の次兄 この時はすでに死去)の娘との縁談を持ちかけられたが、婉子女王の死没後は、「深く室を儲くべからず事を戒めに念ふ」と断わっている。
亡き婉子女王を生涯、愛し続けたのだろうか。
【藤原実資ゆかりの地】
●清水寺
王朝貴族が清水寺で真剣な願掛けをする際、観音菩薩の縁日である18日に参詣、参籠するのが常識であったという(繁田信一『かぐや姫の結婚—日記が語る平安姫君の縁談事情』)。
藤原実資も、1月18日は宮廷の行事があったようだが、1月を除く各月18日に、清水寺へ参詣するように努めていたと思われる。
しかし、病などの理由で、参詣できなかった月も少なくなかったという(細川光成「藤原実資の私生活についてのいくつかのまとめ——「小右記一」を読んで——」 奈良・平安文化史研究会『古代文化史論攷 第16号』所収)。
筆者:鷹橋 忍