稀勢の里引退に思う、そもそも「国技」とは何だろうか?

2月7日(木)7時1分 YAZIUP

日本書紀に見る、相撲の最初の形とは


日本書紀に見る、相撲の最初の形とは

残念ながらというべきか、やっぱりといいますか。

横綱・稀勢の里関が遂に引退となりました。国技ですから外国人勢ばかりに任せてはおけないとか、19年ぶりとなる日本出身の横綱だとか、本人の気負いや周囲のプレッシャーも相当なものがあったはず。

少し気の毒にも思うのですが、ここでふと思うのが「国技とは何だろう?」ということ。いったい誰が決めたのか?ということなのです。国旗や国歌ならば法律で定められています。しかし、国技=相撲とは、どこにも定められていないのです。


ではまず、相撲の起源とされている事柄から見ていきましょう。

日本相撲協会のHPによると、それは「日本書紀」に書かれている、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の天覧試合。しかし、試合の様子は現在の相撲とは大きく異なるもの。当麻「蹴速」でも分かる通り2人が主に使用している技はキック、決まり手は、宿禰が蹴速の腰骨を踏み砕くという凄惨なもの。

これでは相撲というよりUFC、それも最初期のアルティメットといった方がふさわしい。確かに、日本書紀には「捔力(角力=すもう)」という言葉が使われてはいるのですが。



時代を経て、段々と国技らしくなっていく


こんな古代の捔力を、現在の形に近づけたのは聖武天皇。強そうな男同士が闘う様子を観たかったのでしょう、しかし、何でもありだと殺し合いとなり、娯楽にはなりませんから、パンチやキックを禁止したというのです。それが、豊作を祈る宗教行事と結びつき「相撲節会」となり、300年もの間宮廷行事として続くことになったとか。段々と、国技らしくなってきましたね。


その後、武士の世の中になると相撲は神事というよりも、力くらべの様相を帯びてくる。大会を開催し力士をスカウト、配下に置くというということがおこなわれるようになる。源頼朝や織田信長が、相撲を好んだことは記録にも残されています。



江戸時代に大衆娯楽となった相撲


しかし江戸時代になると、太平の世。今さら、力くらべ?ということで、一旦、相撲は廃れかけるのです。しかし、闘っているのを観たいとか、参加したいとかいうのは男性の本能のようなもの。客が入って金が落ちますから、寺社の境内でおこない修繕や建替えの費用に当てた勧進相撲がおこなわれるようになりました。


そして江戸も中期になると、定期的に相撲興行がおこなわれるようになり、土俵入りや、髷、番付などもでき、現在と体裁が変わらなくなりました。しかし、これでは大衆娯楽、これでは国技と呼ぶには格式が劣ると思ってしまうのは、私、アントニオ犬助だけではないでしょう。



国技となる決定打は、国技館の命名


明治政府もそう考え、一時は相撲を廃止しようという動きすらありました。しかし、これを救ったのが相撲好きだった明治天皇、天覧相撲がおこなわれ、格式を取り戻していったのです。


そして決定打となったのが、1906年の初代「『国技』館」の完成。相撲興行がおこなわれる、最初の常設会場なのですが、この建物は元々、設立委員長の板垣退助により「尚武舘」と命名される予定でした。しかし、開館式のプログラムに記載された「角力は日本の國技なり」という一文にひらめいたのが、元大関で3代目の尾車親方。「國技館」と命名しようといい出したのですね。これを板垣が気に入りめでたく命名、つまり国技となったのです。


「でも、しっかりと定められてないんだし、国技と認めたくないなあ」

そんな人もいることでしょう。ただ、日本の国花は桜と菊とか、国鳥はキジだとか、これらは広く知られているものの、国技同様、何に定められているわけでもありません。何となく事実上、決まっていれば良いと考えるなら国技=相撲というのも、それで有りではないでしょうか。

国蝶はオオムラサキとか、国石は水晶とか、国菌は麹とか、他にも定められていない(しかも誰も知らない)「国○」はたくさんあるのですから。


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