平安時代はかなり温暖だった?女性が参詣する時に覆い隠さねばならなかった部分とは?今に残る絵巻や写経から<平安時代のファッション>を読み解く【2024年下半期ベスト】

2025年2月16日(日)10時0分 婦人公論.jp


参拝スタイルにも流行りがあった…(写真提供:Photo AC)

2024年下半期(7月〜12月)に配信したものから、いま読み直したい「ベスト記事」をお届けします。(初公開日:2024年11月1日)
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大河ドラマ『光る君へ』で注目が集まる平安時代。ファッションデザイナーで服飾文化に詳しい高島克子さん(高は”はしごだか”)は「平安時代こそ、日本史上もっとも華麗なファッション文化が花開いた時期」だと指摘します。十二単(じゅうにひとえ) になった理由とは?なぜ床に引きずるほど長い袴を履いた?今回、平安時代の装いとその魅力を多角的に解説したその著書『イラストでみる 平安ファッションの世界』より紹介します。

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常識が大きく変わる女性ファッション


11世紀末から12世紀末になると、女房装束の唐衣に花結びなどをした紐をつけるようになる。構成自体はこれまでのものと変わりはないが、重ねる袿の枚数は増えているようである。

冬場は寒さ対策もあったであろうが、やはり他より綺麗に見せたいという女心か、見栄の張り合いだったのだろうか。

その後、女性の重袿の枚数は5枚と制限されていく。童女の正装としての汗衫(かざみ)(汗のつく内衣[肌着]であって、単(ひとえ)のものとされる)は、前時代から登場していたが、やがて下級者の表衣(うわぎ)となり、さらに長大化して公家の童女の正装に用いられたようだ。

本来の汗衫とは形も異なるが、単である点は共通している。構成は、衽(おくみ)つき・闕腋(けってき)・盤領(あげくび)を垂領にした汗衫、衵(あこめ)、五つ衣、打衣、単、白の表袴、濃き長い張袴となる。

また院政時代に入る少し前から、男女ともに装束の一番下に小袖を着用し始めていたのだが、院政時代も終盤あたりには、公家女子のファッションで小袖重ねの細長姿が登場している。

一番下に着るものから、小袖が装束の一つのアイテムとなったのである。時代は延暦13(794)年、現在の京都(山城国やましろのくに)に遷都(せんと)としたことにより始まる。

顔や身体を覆い隠す、女性の参拝スタイル


院政時代では、貴族女性も時には外出や旅に出ることもあったようだ。行幸や主人の宿下がりのお供や自分自身の宿下がり、賀茂祭等の祭り見物、夫の任地への同行など様々な状況があったと考えられる。

上級女房クラス(例:清少納言や紫式部クラス)以上は牛車(ぎっしゃ)で移動していたが、中級女房達は徒歩で供をしていた。

その際のファッションが、袿姿の裾を歩きやすいように引き上げて腰を紐で結び、頭に市女笠(いちめがさ)を被る壺装束か、衣を一枚頭から被る被衣(かずき)スタイルだった。

ただし、神社仏閣に参詣する時は徒歩で参拝しなければご利益(りやく)がないとされ、上流階級の女性も顔や身体を覆い隠すスタイルで出掛けた。

この壺装束や被衣スタイルは、『扇面古写経』や『年中行事絵巻』の中に多数登場している。

その他にこの平安時代末期の院政時代に始まった男装の舞妓(まいこ)、白拍子(しらびょうし) のファッションも注目すべきだろう。

妓王(ぎおう)、妓女(ぎじょ)、仏御前(ほとけごぜん)、また鎌倉時代へと導いた武者の一人、源義経との悲恋で有名な静御前等が知られる。

スタイルの構成は、立烏帽子(たてえぼし)、水干(すいかん)、単、紅長袴に太刀佩(お)び、手に蝙蝠扇(かわほりおうぎ)。やがて太刀と烏帽子を外すスタイルへと変化し、静御前が髪を結い上げて、白袴を着けて舞ったとされる。

鎌倉時代につながる男性ファッション


男性の場合、女性ファッションのように絢爛豪華ではなく、束帯の袍に強く糊を張り、角張った面を強調する強装束(こわしょうぞく)が流行り、蟻先(ありさき)も袍の裾から強く張り出すようになった。

台頭して来た武家に対しての貴族達が威厳を見せようとしたことの表れといえよう。そしてこの強装束の流行と前述した女性の重袿(かさねうちき)の枚数制限が思わぬところでそれ以降の日本被服文化史上の大きな一歩を踏み出す一因となる。

柔装束(なえしょうぞく)から強装束への変化は束帯だけでなく、他の装束でも起きたようだ。鎌倉時代前半に『紫式部日記』を絵で著した『紫式部日記絵詞(えことば)』が制作されたのだが、貴族が着用している装束が強装束で描かれているのだ。

おそらく、院政時代に発生したスタイルは鎌倉時代でも継承され、絵師もその時代の貴族のファッションを見て書いたのだろうと推測される。

実際の紫式部や藤原道長が生きた国風文化の時代は、雅で柔らかな曲線が美しいとされた時代で、装束も柔装束であった。

この時代、新たな貴族男性のファッションは登場していないようだが、半尻(はんじり)と呼ばれる、東宮・親王などの皇族の童子用の狩衣のようなスタイルが登場する。

構成は、下げ美豆良(みずら)・半尻・指貫(さしぬき)・後身に半尻の当帯(あておび)、形式的な装飾のあわび結びの袖括りの緒がつけられている。童子用だけではなかったという説もあるようだ。

また、童子の水干(すいかん)が庶民や下級貴族の間で着用されるようになる。水干は日常時または出仕時の武家ファッションとしても着用された。

他に鎌倉時代に発展していく直垂(ひたたれ)も武家の日常時または出仕時のファッションとして登場する。

水干の構成は水干・水干袴・いちび脛巾(はばき/付けていない場合もある)・乱緒(みだれお)に折烏帽子姿。

直垂は庶民服より転じたもので、上下共裂(ともぎれ)で袴の腰は白、胸紐、小露(こつゆ)、袖に高貴を示す袖露(そでのつゆ)、腰刀をさし、武家様式の猿手(さるて)のある太刀、扇子を持ち、革足袋をはくスタイルに折烏帽子(おりえぼし)(侍烏帽子)をつける。

絵巻物が伝える庶民ファッション


貴族ファッションを中心に取り上げてきたが、人口の大多数を占める庶民がどのようなファッションをしていたのか気になるところである。

男性の多くは、頭に萎烏帽子(なええぼし)を被り、膝下で縛る短い丈の小袴に盤領の水干形式の上着を着て袴の中に入れた姿が『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』に描かれている。

『春日権現験記絵』には工事現場のような場所で労働に勤しむ男性たちの絵が描かれているが、彼らは筒袖(小袖)に膝下で縛る短い丈の小袴姿である。ほとんどが無地だが、ボーダー柄の男性も描かれているのが驚きである。

女性の髪の長さはまちまちで、肩あたりで切り揃えた者・長めの髪を首あたりで縛っている者など、髪型に大きな決まりはなかったと推測される。

衣服は基本的には筒袖(小袖)か少し広めの袖口の筒袖の着流しに腰布を巻いた姿、また「手無し」といわれる袖無しの着流し姿も『扇面古写経』に散見される。

平安時代は温暖であったと推測される…


中でも栗拾いをしているシーンで手無しの着流し姿の女性達が描かれており、平安時代がかなり温暖であったことも推測される。

庶民の子供は、裸のままで母親と思われる女性に手を引かれる幼児の姿が『扇面古写経』に描かれており、ある程度の年齢までは服を着せていなかったのではないかと推測する。

現在の小学生くらいの年齢の子供は、裸足で筒袖の紐つき衣の着流し姿で『年中行事絵巻』に多く描かれている。乳児の場合は、貴族であっても裸でいたようで、その姿も『扇面古写経』に描かれている。


絵巻物などにも当時の流行が描かれている(写真提供:Photo AC)

院政時代の文化の特徴は浄土思想の広まり、今様(いまよう)・田楽・のちに狂言に発展する猿楽の流行などがあり、絵巻などにも舞楽の様子が描かれているものが少なくない。

また、武士が表舞台に登場したことで歴史・軍記物語、何度も取り上げた『扇面古写経』『年中行事絵巻』『伴大納言絵巻』や『源氏物語絵巻』『鳥獣戯画』など、絵巻物などが多く作られているのもこれまでと違う平安後期の特徴だろう。

文化の担い手も上皇・貴族中心から武士・庶民に広がり、京都だけでなく地方へ普及し、奥州を平定した藤原氏による世界文化遺産に指定された中尊寺金色堂や大分県には富貴寺大堂(ふきじおおどう)が建立されている。

栄華を極めた平家だったが、やがて源氏の挙兵により源平合戦となり、文治元(1185)年に壇ノ浦で当時8歳の安徳天皇と祖母・二位の尼(にいのあま)(平時子)が入水(じゅすい)し、滅亡する。

この時、三種の神器も海に沈み、八咫鏡(やたかのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は後に見つかっているが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)は海に沈んだままとされる。

そして、源頼朝が鎌倉幕府を開き、約400年間続いた平安時代は終わりを告げたのである。

※本稿は『イラストでみる 平安ファッションの世界』(有隣堂)の一部を再編集したものです。

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