大神いずみ「サッカー少年だった長男が、ある日突然〈野球やりたい〉と。父・元木大介はすぐさまどこかに電話を…」

2025年2月18日(火)11時30分 婦人公論.jp


翔大、ホームランボールを持って。小学生時代にリーグ3位に。普段ほとんど褒めない父、頑張ったあとは短く一言、「おめでとう」と労ってました。ほんの2年くらい前の写真な気がして仕方ない…(写真提供:大神さん 以下すべて)

大神いずみさんは、元読売巨人軍の元木大介さんの妻であり、2人の球児の母でもある。2人の球児の母として伴走する大神さんが日々の思いを綴る。

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前回「大神いずみ「アキタイ(秋の大会、公式戦)の季節がやってきた。二言以上の言葉は息子の耳に入ってないということに、最近気づいてしまった!」」はこちら

オフサイドくん


「オフサイドくん」

うちでは翔大のことをそう呼んでいた時があった。

うちの息子たちはサッカーや水泳、柔道、陸上、スキー、スケートなどのスポーツを中心に、3歳頃からいろいろな体験をさせてくれる幼稚園に通わせていた。

最初に翔大が正式に習ったのは、幼稚園のお友達がたくさん始めたこともあり、サッカーだった。

小さい時の翔大のサッカーはいつも、相手のゴール近くにどしっと構えて、ほかの子が競り合いながら運んできたボールをヒョイと奪ってシュート!を決めるという、なんか絶対ダメなやつ。常にオフサイド気味に人からボールを奪ってシュートを決めようとするので、私たちは彼のことを「オフサイドくん」と呼んで、コラコラと注意することが多かった。
5歳くらいの頃のことだ。

本人はサッカーに夢中で、いつになっても野球の「や」の字も興味がなく、まさか『クイズ!ヘキサゴンII』で珍回答を繰り返す父親の姿を見て、むかしはプロ野球選手だったとは夢にも思っていなかったようだ。

私はどこか心の中でホッとしていた。

野球のことはよく分からなくても、父と同じ世界に一歩足を踏み入れてしまったら、なんだか相当いろいろ「大変そう」「ややこしそう」「ひゃーやばいやばい」。
そう、いまその「いろいろ」をここに取り留めもなく書き連ねているワタシであります。

だからその頃は、できればお願い!お父さんと同じスポーツは選ばないでぇ…と、心の奥底で手をすりすりしながら願っていた。

そんなわたしだがかなり大人になってから、わたしの母親が若い頃、今のわたしと同じようなテレビの仕事をしていたことを知ってギョギョギョ!?となったものだ。ワタシが生まれるうんと前のこと。確かにマイクの前に立っていた、わたしの母。

親の姿を見ていなくても、子どもは親の姿を追うものなんだろうか。その話はまた後日…。

夫の頭上で薬玉が割れた瞬間



サッカー少年時代の翔大。「オフサイドくん」と呼んでた頃が懐かしい

サッカーに夢中になるばかりでそれまで野球の「や」の字も興味がなかった翔大が、小3の時見ず知らずのよその子のように突然
「野球、やってみたい」
と言い出した。

私は今でもこのとき翔大が何を思って、何をきっかけに野球がやりたくなったのか、全く思い当たらない。父とはそれまでほとんどキャッチボールもしたことがなかった息子だ。
まったく訳がわからなかった。

あまりに急にそんなことを言い出したので、きっと私の見えないところで父親が翔大に催眠術でもかけたんだと思った。

でもあの時、翔大が初めて「野球やりたい」の「やき…」くらい言いかけたところで、夫は速攻で携帯から誰かに電話をかけ始めた。

正確に言うとその言葉が翔大の口から出た途端、「おお」なり「ああ」なり相槌を打つより前に知り合いのメーカーさんに電話して、子ども用のバットとグローブを注文していたのだ。

夫の頭上で明らかに薬玉が割れた瞬間だった。

まだ自分の名前を漢字で書けるようになったばかりの息子が、きっちり父の心の奥底の願いを叶えてくれたのだ。

「鬼」へと変わっていく父親


父親というのは、息子が生まれるとよく「早く一緒にキャッチボールがしたい」と言って喜ぶではないか。
ウキウキ楽しみだったというのに、ちょっと大きくなってくると、

「あんなボール打たれへんて、どないなっとんねん!!」
「腰落として取らんくぁこるぁーーー!!!」

大阪で生まれ育った父の熱い指導には、大阪弁が炸裂する。

初めてのキャッチボールのウキウキはどこへ行ってしまうのか、鬼。

グラウンドの息子たちを熱く見守っていて静かに形相が変わっていくお父さんたちを見ていると、うちの夫も間違いなく同じ鬼。鬼がいっぱい。怖い怖い怖い…。

息子たちは父の機嫌と自分の不甲斐なさの加減をいつも計りながら、今日もせっせとスパイクを磨き、素振りに汗を流す。
「星一徹」はお宅にもいますか?
そうですか、うちだけでなくお宅もですか、そうですか…。


翔大が初めて背番号をもらってつけたユニフォームを着て。カメラを構えたらこの表情。懐かしい…

そんな夫も、むかし試合のあとの長い帰り道、信号が赤になるたび運転席の父親から叱り飛ばされていたことをよく話す。
「信号、早く青にならないかといつも心で祈っていた」らしい。
ええ、最近あなたも立派に「信号赤のお父さん」ではないですか。
我が家は信号ではなく食卓で、息子たちが心の中で祈っている。
「お父さん、早く食べ終わってリビングに移ってくれ」と。

あ、そうだ、父の頭上に薬玉。

翔大が小学3年生の秋、突如として「おれ、野球やりたい」と言い出したのには、いったい何があったんだろう。
19歳になった翔大にこれまで訊ねたことはない。

ご先祖様方は「野球応援団」


それよりある時、友人に言われたことがあまりにも衝撃的だった。

今でもわたしは我が家の夫や息子たちを見る時、全く私の目には映り込んでこない「確かな」存在をその背後に感じることがある。

その友人の言葉はとてもとてもわたしの心にまっすぐ刺さった。

その人はいわゆる「スピリチュアル」な能力をもっている。

そんな人は普段から目にものが映るように、感覚的に人の背後にいろいろな色の光や人影が見えているんだそうだ。人に言うと怖がられることもあるので、逐一口に出すこともないんだとか。

ある時わたしは家族についてこんなことを言われた。

夫。
彼には、パッと見渡しただけでもかなりかなり多くの「ご先祖様」がいつも背後に憑いて見える。背中に大勢を背負っているような感じで、皆様じぃと大介におぶさって彼を見守っている。

そしてそのご先祖様方は総じて皆さま、「野球応援団」。
小さい頃から常に彼の野球を守り、どんなことがあっても野球の道から逸れないように「護り」「導いて」いる存在なのだとか。
それはもう賑やかな「大応援団」で、とにかく大介がここまで野球の道をまっしぐらに歩めるよう、大勢で彼の人生を支えてくださっている方々なのだそうだ。

…でしょうね。

なんだかすごぉくすごぉく合点がいく私。

少なからず誰にでも、自分を護ってくれる「見えない存在」がいるのではないかとわたしは思っている。
どこからか命が繋がって繋がって…不思議なことに私がここに生まれ落ち、またわたしも命を繋いで、今また自分の家族を作っているのだから。

わたしの知らない頃の元木、甲子園やハワイに行ったときや、ジャイアンツの入団、引退、そしてまたコーチとしてユニフォームを着たとき、すべてに、彼のご先祖様方の大応援団に護られていたであろうことは想像できる。

もちろん夫自身の努力もあっただろうが、目に見えない力に確かに導かれたことで、そう大きく逸れることなく野球の一本道を迷わず歩いて来られたのだと
私は思っている。

そんな夫にも、15年近く球団から離れて野球解説者、タレントとして野球の「外」にいた時期があった。あ、そう、今もそうだ。選手やコーチではないから。

そして始まった息子と父の野球の二人三脚、詳しくは次回に…。

婦人公論.jp

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