ヤマザキマリ<怒り>と<叱り>を混同する日本。人材不足で若手がすぐ辞める今「言いたいことを我慢して黙っている」とのベテランタクシードライバーの話を聞いて頭をよぎったのは…
2025年2月19日(水)12時30分 婦人公論.jp
”怒り”と”叱り”の違いに想いを巡らせたというマリさん。人材不足の今「言いたいことがあっても我慢をしている」というベテランタクシードライバーの話を聞いて考えたのは——(文・写真=ヤマザキマリ)
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怒りと叱り
空き地で子どもらが野球をしていると、あらぬ方向に飛んでいったボールがご近所の家の窓ガラスを割り、子どもらがその家の主の頑固ジイサンに叱りつけられる、というのは昭和の漫画やアニメでよく見られるシーンだ。私たちの世代にとって、家族や教師だけでなく、他人に叱られるのはわりと当たり前のことだった。
ちなみに“叱り”は、情動に駆られる“怒り”とは質が違う。どちらも声をあげてしまいがちになる行為だが、実際には似て非なるものなのである。
“叱り”は、我々が生きている社会にどのようなルールがあり、良い社会や善い人間関係を築くにはどんなことに気をつけて、何を守らねばならないのか、といったことを教える躾の意味を持つ。一方、個人的な感情を噴出させるのが“怒り”である。
とはいっても、子どもは親から「どうして言われたとおりにできないの!」などと指摘されたところで、それが個人的なストレス発散を兼ねた“怒り”なのか、躾としての“叱り”なのかは判別できない。
子どもを虐待する親の多くが躾のためだと捉えているそうだが、その線引きは声をあげてしまう側にとっても難しい。
抑制するべきなのは“怒り”なのだが
わかりやすく言えば、“叱り”は相手を慮った利他的な行為であり、“怒り”はあくまで個人的な不快感に紐づいた利己的な行為ということになる。
つまり人が抑制するべきなのは“怒り”であって、“叱り”ではないはずなのだが、この二つが混同されて、学校であろうと、会社であろうと、街中であろうと、人々はそう簡単に、他人の子どもの素行の悪さを指摘できなくなってしまった。
私個人の経験で言うと、ここ最近タクシーに乗ったとき、運転技術やサービス面であまりいい思いをしたことがなく、「ドライバーのクオリティが下がりましたね」と先日話が弾んだドライバーに振ってみたところ、そのベテランの高齢ドライバー曰く「皆コロナ禍で辞めてしまい、代わりに若手の新米が入ってきても、なかなか扱いが難しく、ちょっとでも強い口調で指摘をすると辞めてしまう」ということだった。
厳しく叱っている現場を目撃し
ただ、人材がいなければ会社も存続できないから、「私たちは言いたいことを我慢して黙っている」のだそうだ。そのため、若いドライバーの態度がどんどん横柄になってしまうということらしい。
以前にも触れたが、航空会社の地上係員などのサービスも、以前に比べて低下してしまったなと思うことがしばしばあるが、きっと同じような理由によるのだろう。叱られない日本のこの先に対する漠然とした不安がつのる。
そんななか、先日訪れた銀座の料理店で、年配の女将がアルバイトの大学生を「あんな接待じゃ失格よ、ここで働きたいのならしっかりしなさい」と厳しく叱っている現場を目撃した。
「頑張りなさい、応援してるんだから」と女将から肩を叩かれたアルバイトは小さく頷いて、座敷へと戻っていった。すごく懐かしいものを目にしたような気持ちになり、少し安堵した。
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