傑作なのに2度も落選したル・コルビュジエの近代建築、対象になる物件は同じでも「当落」がある世界遺産の不可解さ
2025年2月19日(水)6時0分 JBpress
(髙城千昭:TBS『世界遺産』元ディレクター・プロデューサー)
落選の理由は「世界遺産は人に与えるものではない」
東京・上野駅の公園口改札を出るとすぐ右側に、宙に浮いた碁盤のようなユニークな形状をもつ建物が見えてくる。それが、1959年に完成した国立西洋美術館である。第二次世界大戦後、フランス政府に差し押さえられていた絵画類(松方コレクション)が返還されるにあたり、それらを収蔵・展示する美術館が必要になった。当時、パリを拠点に活躍していた世界的な建築家、ル・コルビュジエに設計を依頼したものだ。
それを「地元発展の起爆剤にしたい」と、アメ横商店街の会長が旗ふり役を買って出て、世界遺産まで漕ぎついた。正式な登録名は、「ル・コルビュジエの建築作品—近代建築運動への顕著な貢献—」(登録2016年、文化遺産)とかなり長く弁解がましい。そこに2度も落選して、3度目の登録までに10年近い月日を費やした苦難の道程がにじみ出ている。
ユネスコへの申請の中心になったフランスをはじめ、スイス、ベルギー、ドイツ、アルゼンチン、
近年、関連する要素を見つけ出して、あれもこれも世界遺産に含めようとする傾向が強い。全体をつなぐストーリーに“顕著な普遍的価値”があれば、必ずしも個々の物件に価値は必要とされないのだ。埋もれた文化財を守るという観点からは正解だが、これが世界遺産を“分かり難い”存在にし始めている。所詮、町おこしや観光の目玉に過ぎないのではと、揶揄されるようにもなった。
こうしたシリアル・ノミネーション(連続性のある遺産)の中でも「ル・コルビュジエの建築作品」は、1国どころか初めて大陸を越えたのだ。ある近代建築家の名前の下に、西欧とインド・日本・南米アルゼンチンという遥かに離れた地域が、まとめて1つの世界遺産になったのである。
ル・コルビュジエと並ぶ近代建築の3大巨匠のひとり、ミース・ファン・デル・ローエ(他にフランク・ロイド・ライト)のモダニズム建築の傑作は、「トゥーゲントハット邸」(チェコ)だけで世界遺産になっている。万人に理解できるシンプルさだ。
それに比べると1回目の申請(2009年)では、初期から晩年までの建築物22件に及ぶ。彼が設計さえしていれば“何でもあり”なのか? そんな疑問まで湧くのは当然だろう。
ル・コルビュジエが20世紀の建築や都市計画に多大な影響を与えたことは、誰もが異論はない。ユネスコも登録には前向きなのだ。しかし、評価のベースを“建築家の人生”に置いたことから、世界遺産は「人に与えるものではない」という理由で落選した。
同じ物件なのに3度目の申請で登録
西洋建築はずっと、石壁によって建物を支えてきた。それゆえ大きな窓を開けたり、自由な間取りにすることができなかった。20世紀になり、コンクリートや鉄、ガラス素材を活かして、柱で床面をもち上げる新たなデザイン原理を追求したのがル・コルビュジエだ。
彼が提唱した「近代建築の五原則 ①ピロティ(国立西洋美術館のように、1階部分に列柱で吹き抜け空間をつくる)、②水平連続窓、③屋上庭園、④自由な平面、⑤自由なファサード」は、世界各地に広がってゆく。私たちがいま日常的に見ているモダンな建物は、元を正せばル・コルビュジエである場合が多い。
そんな現実を踏まえ、2回目の申請(2011年)は「近代建築運動への貢献」にストーリーを変えた。しかしこの時もまた、近代建築運動は「ル・コルビュジエの作品だけでは説明できない」と落選。フランスの3つの物件「サヴォア邸」「マルセイユのユニテ・ダビタシオン(集合住宅)」「ロンシャンの礼拝堂」だけは価値を認めるので、これらに絞って再推薦するよう勧告までなされた。
そこで3度目(2016年)は、「20世紀建築への影響」を証明できる17件に絞り込み、ル・コルビュジエ各作品がそれぞれどのように近代化への役割を果たしたのか、を明示したのだ。これにより国境を越えた“貢献”が認められ、やっと登録に至った。しかし3度とも対象になる物件はほぼ同じなのに、価値の証明が不十分で落選したり、高く評価されたりする。こうした手続きの不可解さは、世界遺産への信頼を失うのではないか?
国立西洋美術館は、東アジアにある唯一のル・コルビュジエ建築だ。彼が考案した「無限成長美術館」という“思想”をまさに体現している。鑑賞者は、まず核になる吹き抜けの19世紀ホールへ入る。スロープを登るにつれ、段々と変わる景色を楽しみながら2階へ。そこから螺旋状になった展示室を見ながら回ってゆく。こうした構造なら将来に収蔵品が増えても、外側にクルクルと螺旋の数を増やせば対処できる。実際には新館を建てて、この本館を伸ばさなかったのだが……。
2022年4月のリニューアルオープンでは、開館当初の“開かれた前庭”が復元された。外部から見える透過性のある柵に変え、床には目地によって客の動線を引いたのだ。これにより本館のピロティへと自然に視界は移ろってゆく。
1950年代の最後の年、ル・コルビュジエの建築によって、日本人は世界とつながった。価値はいつだって国立西洋美術館にあり、世界遺産だから価値があるのではない。そんな当たり前の事実を、2度の落選後に登録された建物が、否応なく教えてくれる。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)
筆者:髙城 千昭