猪突猛進タイプの武将・源義経と戦国武将・織田信長との共通点
2025年2月14日(金)5時55分 JBpress
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
一ノ谷の合戦に勝利
寿永2年(1183)閏10月、鎌倉の源頼朝は、異母弟の源義経、中原親能を伊勢国まで進軍させます。これは、10月に朝廷が発給したいわゆる「寿永二年十月宣旨」(東海・東山道の荘園・国衙領を元のように荘園領主や国司に知行させる。この命令に従わない者があるならば、頼朝に命じて従わせるとの内容)を施行するとの名目でした。平家追討のため、都から西国に下向していた木曽(源)義仲は、義経ら「鎌倉軍」の動向を掴み、急いで帰京します。
留守中、鎌倉軍に都を衝かれることを恐れたのです。伊勢に進軍した義経らの軍勢は「僅かに五百騎」(貴族・九条兼実の日記『玉葉』)。伊勢国の武士や、平信兼(伊勢平氏)の軍勢が加勢していました。加勢を得た義経は、寿永3年(1184)1月中旬、都へ進軍します。
一方、頼朝が派遣した源範頼(頼朝の異母弟)の軍勢も、美濃から近江に軍を進めます。対する義仲方は、軍勢を2手に分けて、義経軍を迎え撃とうとしました。しかし、1月20日、義経軍は宇治川を渡り、京中に入ります。義仲は、後白河院を連行しようとしましたが、敵勢が迫ったため、それを断念、近江国に向けて逃走。最終的には、義経軍の武士により、討たれてしまうのです。
翌日、義経は義仲の首を取ったことを、朝廷に報告しました。が、義経らは、1月29日には、今度は平家追討使として、西国に派遣されることになります。都落ちした平家でしたが、再び勢いを盛り返し、摂津国まで進出していたのです。範頼の軍勢は、山陽道から生田へ。義経軍は、丹波路から一ノ谷に向かいます。
そして、2月7日、平家方との一ノ谷の合戦が勃発するのです。一ノ谷の合戦と言えば、義経軍による鵯越の逆落としが有名です。険しい獣道である鵯越、急峻な崖を馬で駆け下りる義経軍。軍記物語の『平家物語』などでも描かれてきた有名なシーン。が、「山方」より攻めて「山の手」を攻略したのは、『玉葉』によると多田行綱の軍勢だったようです。
織田信長との共通点
摂津国に縁のある行綱は、同国の地理に詳しかったはず。彼が「山方」より平家を攻めることができたのも頷けます。では、「搦手」の義経はどう行動していたのか。丹波・播磨国境に近い三草山(丹波城)の平家軍を打ち破り、一ノ谷に攻め寄せ、そこを落としたと『玉葉』にはあります。
大手(正面)の源範頼軍は、山陽道を西に進み、福原に向かいました。それから、生田で平家軍と戦い、2時間ばかりで、平家方を撃破したとされます。
一ノ谷の戦いというと、前述したように、古典などを基にして、義経軍の戦い方ばかりがクローズアップされてきましたが、現実においては、範頼・義経・行綱3軍の活躍により、勝利を収めることができたのです。平家方は、生田・一ノ谷・山の手を全て破られ、敗走していきました。
ちなみに『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には、一ノ谷の合戦において、義経軍は、鵯越から平家軍を急襲したので、平家は敗走したと書かれています。
2月9日、戦を終えた義経は、僅かな供を連れて、都に戻ってきました。討ち取った平家一門の首を見せしめのため、都大路を引きまわす件について朝廷と相談するために、一足先に戻ってきたのです。
源範頼・義経兄弟は、平家の首の「大路渡し」を主張。朝廷では、彼らが親(源義朝)の怨みを晴らすため、そのようなことを申し出ていることを「道理」とし、理解を示しました。結果、一ノ谷の戦いで討たれた平家の人々の首は、樹木に晒されたのです。多くの人々が見物に集まったといいます。
さて、一ノ谷の合戦後、鎌倉軍は、平家の本営がある屋島(香川県高松市)を攻撃せんとします。元暦2年(1185)2月16日、義経は讃岐国(香川県)に向かうため、摂津国渡辺津から船出しようとしていました。その直前、院の使者として、高階泰経が義経のもとを訪問。「京中の警固のため、一旦、帰京するように」要請します。ところが、義経は制止を聞かずに、出航したのです。
『吾妻鏡』によると、泰経は「私は兵法については知らないが、想像するに、大将軍たる者は、戦において先陣を争ったりしないもの。先ず、副将を出陣させては」と主張したとされます。それに対し、義経は「戦にて、命を捨てようと思っているのです」と反論したと言います。2月18日、いよいよ船出しようという時になり、暴風が吹き荒れ、多くの船が破壊されました。よって、兵卒は船を出そうとはしません。
すると義経は「朝敵の追討使が、多少であっても留まり待つことは恐れ多い。風波の難を考えてはならない」と言い、5艘の船を強引に出させたのでした(『吾妻鏡』)。『吾妻鏡』は義経の船出を2月18日としていますが、『玉葉』には16日とあるので、後者が正しいと思われます。義経は150騎(『吾妻鏡』)の軍勢で阿波国勝浦に上陸することになります。
『吾妻鏡』に載る義経の言葉を見ていると、彼は猪突猛進タイプの武将(リーダー)のように感じます。あの戦国武将・織田信長も、戦場においては先頭に立って行動することがありましたが、似たタイプと言えます。リーダーが先陣を切ることは軍勢の士気を上げる効果もあり、それが勝利に結び付くこともありますが、大将が討死して、部隊が壊滅する危険性もあるでしょう。
筆者:濱田 浩一郎