「作品は面白くても本人は面白くない」喜劇王・エノケン、晩年の耐えがたき落日の日々、本当はさみしがり屋だった?

2024年2月22日(木)6時0分 JBpress

(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

●日本が生んだ天才喜劇王・エノケン波瀾万丈の人生劇場(1)
●日本が生んだ天才喜劇王・エノケン波瀾万丈の人生劇場(2)


エノケン、ロッパ、金語楼、喜劇王の中の喜劇王

 戦前、日本の三大喜劇人とされたのが、エノケン、落語出身の柳家金語楼、声帯模写の古川ロッパの3人です。

 金語楼は明治34年(1901)、ロッパは同36年(1903)、エノケンが翌37年(1904)生まれと、ほぼ同世代の3人が笑いで鎬を削るという時代がありました。

 昭和10年代、日米開戦の同16年まではエノケンやロッパの名前が冠された映画が何本も製作され、「エノケン、ロッパの時代」と称されたようですが、下町対山の手、ダミ声と美声、軽快さと貫禄という2人の対照の妙が面白かったのでしょう、共演映画も製作されました。

 声色の天才、古川ロッパは文才もありましたが、如何せん、動きのある動作は苦手で活字とラジオ向きの人でした。

 70代以上の方にとってはNHKの『ジェスチャー』でおなじみだった金語楼はテレビ・映画以外にも放送作家として売れっ子でしたが、アクションとは無縁でした。

 ロッパも金語楼も自分の名前が冠された映画主演作がいくつもあります。ただし、人気も作品本数もエノケンにはとても及びません。

 浅草オペラで鍛えたエノケンこそ、歌って演じて動き回れる喜劇王の称号に最もふさわしいコメディアンだと言えるでしょう。

 一度耳にしたら忘れられない魅力を持った歌声、銀幕の中で縦横無尽に動きまくる機敏さ、大きな目玉をいかした愛嬌ある台詞回し、これらは登場してまだ日が浅かったトーキーの興行側にとって、エノケンはその申し子のようなありがたい存在だったはずです。


さみしがり屋だった喜劇王エノケンの本質

 人懐っこくてどんなアドリブも見事にこなしたエノケンは、後進の指導にも熱心でした。

 令和5年(2023)、鬼籍に入った財津一郎はエノケンが開設した映画演劇研究所(大田区雪谷。いわゆるエノケン学校)の門下生でしたが、昭和44年(1969)、帝国劇場『浅草交響楽』での劇中劇の稽古中、義足をつけたエノケンから受けた熱血演技指導の言葉が忘れられなかったそうです。

「余裕を見せることなく気迫を込めて大悲劇として演じなければ心に届く喜劇にはなんねえよ」

 NHKの朝ドラ『ブギウギ』でも演じられていましたが、終戦の翌年、昭和21年(1946)3月、有楽座「舞台は廻る」でブギウギの笠置シヅ子と初共演した際、役者としては未知数だった笠置に対して「私が全部受け止めるから、思うように演じなさい」と安心させたエノケンの指導も有名ですね。

 人気絶頂の頃、ターキーこと水の江瀧子がエノケンを評して「日本人に出せない派手さとペーソスを感じさせる人」「大勢の人に囲まれながらもちょっと寂しそうな人」と述べています。

 また、周囲から「エノケンの舞台や映画は面白いけど、エノケン自身は面白くないよ」とささやかれることのあったエノケンですが、森繁久彌によれば、エノケン自身が「本当に陽性の男は喜劇役者に向かない。自分は陽気に見えるだろうが、実は陰性の男。いつでも陽気にしていないと気が滅入るので、それで騒ぐんだ」といった趣旨のことを言っていたそうです。


耐えがたきエノケン落日の日々

 戦後も「エノケン」の名が冠となる映画は昭和29年(49歳)まで続きますが、私生活における40代後半からの人生の暗転は、エノケンにとってきわめてつらいものになりました。

 以下、主なものを記してみます。

・昭和25年(1950)1月、舞台中に左足激痛、特発性脱疽(壊疽)発病で舞台休演(45歳)。

・同年5月、エノケン劇団解散。

・同27年11月、脱疽再発のため右足指5本切断(48歳)。

・同29年1月、「日本喜劇人協会」設立。会長に就任(49歳)。

・同32年(1957)7月、長男・鍈一(享年26)と死別(52歳)。

・同37年9月、脱疽悪化のため、右足を大腿部から切断(57歳)。

・この当時、借金生活で税金を払えず(何度も自殺未遂を繰り返した時期だそうです)。

・同37年、来日中だったハロルド・ロイド(サイレント映画時代の米国スター)による励ましにより、義足をつけての舞台復帰を決意。その後、最晩年まで舞台、映画、テレビにも出演。

・同40年(1965)、「サンヨーカラーテレビ」のCMソング、スタート。顔出しで歌っています。昭和11年公開の映画『うちの女房にゃ髭がある』(エノケン主演作ではありません)の替え歌です。

・同42年9月、昭和4年の結婚前から40年近く連れ添った最初の妻、花島喜世子と離婚。

・同42年10月、戸塚よしゑと再婚。

・同45年1月7日、肝硬変にて死去。

 享年65でした。


今こそ楽しみたい、忘れがたき映像と歌声

 令和6年(2024)の今年、エノケン没後54年、生誕120年を迎えます。元日から目を覆いたくなるような災害・事故が重なる中、YouTubeで見られるエノケン映画を見ながら、ひととき無邪気なドタバタ喜劇で頬を緩めてみるのも悪くはないかと思います。

 エノケンの音源と映像は、戦災で失われたものも多いのですが、戦前活躍した人としてはかなりの量が残されています。

 もともと膨大な量が残っていたためでもあり、それはまたエノケン人気を物語っていることでもあります。

 私たちがその音源や映像を楽しまないというのは大変もったいないです。また、温故知新、CG映画全盛の今だからこそ見えてくる、本来の人間の姿に出逢えるかもしれません。 

(参考)
『エノケンと呼ばれた男』(井崎博之著、講談社)
『榎本健一 喜劇こそわが命』(榎本健一編、日本図書センター)
『エノケンと〈東京喜劇〉の黄金時代』(東京喜劇研究会編、論創社)『エノケンと菊谷栄』(山口昌男著、晶文社)
『エノケン芸道一代』等のCD類

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

筆者:堀井 六郎

JBpress

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