「戦国最強武将は童貞」説、その理由が深すぎる

2月27日(土)6時0分 JBpress

(乃至 政彦:歴史家)

上杉謙信は「生涯不犯」、つまり性交渉を一生しなかったと言われ、それゆえ女性説や、女性に興味はなかったが「男色(なんしょく)」には強い関心があったというものもある。最新の研究では謙信も妻帯を考えた形跡があることが言われるようになったのだ。

上杉謙信の謎をまとめた『謙信越山』が評判を呼んでいる乃至政彦氏が、この伝説を検証、それらが生まれる理由について考察する。(JBpress)


上杉謙信と生涯不犯

 上杉謙信は「生涯不犯」だったと言われている。

 つまり性交渉を一生しなかったと言うことだ。事実として謙信には実子がなく、女性を性対象と見たような形跡もほとんど見えない。上杉家公式の藩史にも若い頃の謙信が「御身清浄ニシテ、自然ト塵慮ヲ遠ケ」と意識的に色欲を遠ざける生活をしていたことが伝えられている。

 こういう人物であるから、無数の俗説が生み出された。例えば、謙信女性説がそうである。また、女性に興味はなかったが、「男色」には強い関心があったというものがある。

 女性説は以前述べた(「「上杉謙信は女性」という設定が拡散し続ける理由」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62265)ので、今回はこの生涯不犯と男色説を見ることにしよう。

 謙信の男色愛好説は様々に議論されているが、結論から言うと、8年前に『戦国武将と男色』(洋泉社歴史新書y、2013)を執筆した時の調査で、謙信が男性への性的指向を好んだ形跡がないことを明らかにした。

 では、謙信の男色愛好説はどのように生まれたのか。そして生涯不犯の伝説は真実なのか、当時の史料を中心に問い直してみよう。


過去帳に記された「越後府中御新造」

 まずは生涯不犯の実否である。謙信は女性に関心がなかったというのは本当だろうか。実は最近、歴史学者たちが謙信も妻帯を考えた形跡があることを指摘するようになった。根拠となる史料は二点ある。

 一つ目の史料は、高野山の清浄心院に残る過去帳『越後過去名簿』である。この史料は13年前に活字化されて以来、多くの研究者が注目を寄せている。

 そこに、永禄2年(1559)4月の生前供養の記録として、「越後府中御新造」という人物の記述が見える。現代語訳するなら「越後府中さまの高貴なる新妻」と言う意味になる。謙信が30歳のときの記録である。

 当時、越後の首都は府中にあった。もともとそこには越後守護・上杉定実が住んでおり、定実が生前の間、「越後府中」といえば、国主の定実を指していたことになる。

 だがその定実は9年前に亡くなっており、越後の国主は名実ともに春日山城主・上杉謙信のもとへ移っていた。

 このためこの「越後府中」は謙信のことで、「御新造」というのは謙信のことに他ならないと言われているのだ。するとこの時期、謙信には若い奥さんがいたことになる。

 この説については、先日発売した『謙信越山』に私見を披露させてもらった(第一章 番外編/壱)。これを機に読んでもらいたい。

 続いて第二の史料も見てみよう。


一次史料に見える「新さう」は?

 二つ目は、以前からよく知られている史料だが、改めて読み直してみることで、謙信妻帯の可能性を示していることが指摘された。

 川中島合戦直前の永禄4年(1561)6月2日の朱印状で、関東に在住する謙信が越後の手の者に対して、「新さう」という人物を越後から関東に送って欲しいと書き送っているのである。

 この「新さう」は、男性の人名ではなく、「新造」(新妻)の可能性が高い。朱印状の文章は、謙信の正室を示しているようにも読める。

 同年3月、謙信は鎌倉で上杉憲政から家督を譲られたばかりだった。それまで「長尾景虎」を名乗っていた謙信は、ここに上杉の名字を授かったのだ。

 ただ、憲政と謙信は家族関係を結んでおらず、この家督相続そのものからして急に決定された予定外の事件だった。関東の諸将に強く意見されて、やむなく受け入れた相続なのである(こちらも『謙信越山』に詳しい)。

 そこで謙信は、上杉一族となった既成事実を補強するべく、越後にいた憲政の娘を正室に迎え入れるという手続きを踏もうとして、この朱印状を発したと考えられるのである。


大名の原則は政略結婚

 このように謙信にも妻帯を考えていた形跡が見られる。

 そもそも一国の大名が妻帯しないなど、大変な異常事態である。大名は、自分のためだけでなく、家臣の子孫繁栄のためにも後継体制を整える必要がある。謙信はそんなことを考えていなかったと言われるが、国政に関することなので、謙信個人が何も考えずに独身を通そうとしても、側近や重臣たちが縁談を勧めないわけがない。

 武家社会では政略結婚がフォーマルで、自由意志で決定されるものではなかった。

 謙信が家臣たちの声に耳を傾けなかったことも考えにくい。

 例えば、この2年後の永禄6年(1563)、上杉軍が敵地で前進か撤退かで議論が分かれた時、謙信は「若年之者共」の主戦論を受け入れて、騎西城を攻めることに決している。謙信は一部のイメージと違って、独断専行ではなく、家臣の意見をよく聞く武将だったのだ。したがって、縁談の話を「俺の趣味に合わない」などと個人の性的指向を理由に断り続けるとは考えにくい。

 先述した「新さう」だが、謙信はこのあとすぐ勃発した川中島合戦で、縁談どころではなくなってしまう。しかも関東では味方の離反が相次ぎ始めていた。もはやお祝い事を成就させる空気ではなくなっていた。謙信の結婚は立ち消えになったと考えられる。


謙信が独身を通した理由

 ちなみにこの時まで謙信が独身だった理由は、意外に注目されていなかったが、実は上杉家の藩史『謙信公御年譜』にあっさり明記されている。

 19歳の謙信が、兄の長尾晴景から家督を預かり受けた時、いずれ自身の家督を兄の息子に返す約束をした。謙信は、これを兄に通すべき「節義」と考えた。だが程なくして兄が病没し、ついでその息子が早死にした。

 そこで今度は姉の息子である卯松(後の上杉景勝)を養嗣子に迎え直し、冒頭で述べたように「御身清浄」として童貞を守り通したという。政治的に考えて、とても合理的な判断である。すでに後継者が決まっている以上、謙信は妻帯を避けるべきだと考えたのだ。

 だが、さすがに上杉氏の家督を継承するとなると、形ばかりでも縁組をするべきだと考え直したのだろう。そこで取り急ぎ「新さう」への婿入りを進めようとしたが、結局は頓挫したのである。

 さて、「生涯不犯」の話はここまでにして、次は謙信が男色を愛好したという話の真偽を見ていこう。これには一つだけ、その証拠とされる一次史料がある。関白・近衛前久が友人の僧侶に宛てた手紙である。


男色説、好みは美少年の真偽

 謙信が男色好きだったとするイメージは、意外にも最近になって作られたものである。江戸時代の文献を見ると、むしろ逆のことが書いてある。他国の策士が独身の謙信のもとへ、美少年の暗殺者を送り込んだが、謙信はこれに興味を示さず、すぐに帰国させたという逸話があるのだ(『謙信家記』)。つまり豊臣秀吉同様、男色には関心がなかったという設定で見られていたのだ。

 ただ、一つだけ例外となる同時代の史料がある。関白・近衛前久が、僧侶の知恩寺岌州に書き送った書状に、興味深いことが書かれてあるのだ。

「少弼[謙信]は、若もし[若衆=美少年]数奇の由、承り及び候(謙信は若衆が好きらしいと聞き及びました)」

 これは関白と公方(将軍・足利義輝)が酒宴を楽しんだ翌日の手紙である。2人は華奢な若衆を大勢集めて大酒を楽しむのが好きだった。

 先学はこの手紙を、2人が謙信と一緒に酒宴を楽しんだことを語る内容と解釈してきた。だとすれば、関白は謙信と同席して本人から直接聞いた話であるはずだから、確実視できるのであり、歴史学界は長らく謙信を男色愛好家として研究していた。これで謙信の美少年好きは間違いないと思われていた。

 ところが、昨年、山田邦明氏が著書『上杉謙信』(吉川弘文館、2020年)で、この史料について異論を述べ、その通説が不正確であることを指摘した。

 実は謙信は、公方と関白の酒宴に参席していないのだ。どういうことか。この手紙の通説に関わる部分をここに意訳して紹介しよう。

「今日、謙信が公方のもとへ出勤するので、父とわたしも参るように公方から聞かされましたが、わたしはこちらを訪れた公方と夕方から朝まで大酒を飲み、二日酔いになってしまったので、謙信に会うことができませんでした。父は公方を交えて会いました。

 この前も何度か公方はこちらを訪れ、華奢な“若衆”をたくさん集めて大酒を楽しみ、(その時に)謙信は若衆が好きだと聞きました」

 これを見る限り、公方と関白の「大酒」に謙信は同席していない。ただ、公方が関白に“謙信は若衆が好きらしいぞ”と述べたのを記したに過ぎないのである。その公方も謙信とはまだ個人面談した経験がなかった。

 つまり、謙信が「若もし数奇」というのは、22歳の公方と24歳の関白が想像した永禄コソコソ噂話に過ぎないのだ。

 謙信が30歳になっても女性を遠ざけている理由を不思議に思い、このようにゴシップを楽しんだ。いつの時代にも見られるごく普通の光景である。


真実の上杉謙信とは?

 謙信が妻帯しなかった、実子を作らなかった、養子たちが跡目争いをした、という複数の事象が奇妙な形で繋がり、やがて「生涯不犯」の伝説が定着した。そしてそこから、男色愛好説や女性説などの諸説が派生し、これらのイメージに親しむ現代人が、当時の史料を曲解して、また独自の歴史を紡ぎ出していく。

 生身の人間が、神話のキャラクターへと変容する。歴史を見ているとこういうことが少なからずある。

 虚像と実像を見極めるのは難しいが、焦ることなく結論を慎重に探っていきたい。個人の性的指向については尚更だ。

『謙信越山』特設ページオープン!
https://jbpress.ismedia.jp/feature/kenshinetsuzan

筆者:乃至 政彦

JBpress

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