『べらぼう』書物問屋の須原屋市兵衛と地本問屋の鶴屋喜右衛門、須原屋が没落した理由、鶴屋は蔦重と旅行に?
2025年3月3日(月)6時0分 JBpress
(鷹橋忍:ライター)
今回は、大河ドラマ『べらぼう』において、里見浩太朗が演じる書物問屋の須原屋市兵衛と、風間俊介が演じる地本問屋の鶴屋喜右衛門を取り上げたい。
【須原屋市兵衛】弾圧の危機を乗り越え、『解体新書』を刊行
須原屋市兵衛は、江戸の代表的な書物問屋で江戸一の大書商と称される須原屋茂兵衛(すはらやもへえ)の分家にあたり、申椒堂(しんしょうどう)を号した。
生年は不詳だ。
須原屋市兵衛は、当時の最先端の知識である蘭学に深く共鳴し、蘭方医、蘭学者の杉田玄白、蘭学者で戯作者の森島中良(平賀源内の弟子)、安田顕が演じる平賀源内らの著作を、いち早く出版した。
平賀源内の著作に強く執心したとされ、源内の代表作『物類品隲』、『火浣布略説』、『神霊矢口渡』を刊行。さらに、『根なし草』、『風流志道軒伝』の版権を、他店から買い取っている(今田洋三『江戸の本屋さん』)。
須原屋市兵衛は、杉田玄白らによる日本最初となる本格的な翻訳医学書『解体新書』を刊行したことでも知られる。
当時、幕府は蘭学に対して厳しく目を光らせていた。そのため須原屋市兵衛も絶版処分を覚悟のうえで刊行を引き受けたと思われ、刊行に至るには相当の苦労があったという。
天明5年(1785)には、経世論家で、「寛政の三奇人」の一人である林子平(はやししへい)が著した『三国通覧図説』の刊行を受け持つが(刊行は翌天明6年)、これが没落を招くことになる。
重過料を課せられ、没落へ
『三国通覧図説』は、日本と隣接する朝鮮・琉球・蝦夷、付近の島々の地図と、挿絵入りでの解説書で構成されている。
林子平は海防書『海国兵談』を自費で出版し、海防の必要性を説いたが、寛政4年(1792)、幕府により処罰されてしまう。
これに関連して、『三国通覧図説』も絶版となり、須原屋市兵衛も重過料を課せられた。
金額は不明だが、須原屋市兵衛は大打撃を受けたとみられている(今田洋三『江戸の本屋さん』)。
その後、苦境から脱することは叶わないまま、文化8年(1811)に没している。
菩提寺は、江戸浅草の善竜寺だという。
【鶴屋喜右衛門】京都鶴屋本店の一族? それとも暖簾分けした番頭?
鶴屋喜右衛門は、須原屋とならぶ江戸の大版元だ。通称「鶴喜」、堂号は仙鶴堂である。
蔦屋重三郎と同時代に活躍したのは、何代目の鶴屋喜右衛門なのかは、わからないという(鈴木敏夫『江戸の本屋(上)』)。
もともとは、浄瑠璃本版元として知られる京都の鶴屋喜右衛門の江戸出店で、延宝年間(1673〜1681)に、江戸大伝馬町3丁目に店を構えたという(井上和雄編『慶長以来書賈集覧』)。
小林姓を称していたが、京都鶴屋本店の一族なのか、あるいは暖簾分けした番頭なのかは、明らかではない。なお、江戸進出は、もっと早い時期だった可能性も指摘されている(鈴木敏夫『江戸の本屋(上)』)。
地本問屋として著名な鶴屋喜右衛門だが、書物問屋も兼ねており、草双紙(挿絵入りの娯楽読み物)や錦絵、経典など多数刊行。
貞享年間(1684〜1688)には、江戸の代表的な書商として、その名が知られた(松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』)。
文政元年(1818)、歌川豊国の挿絵入りで刊行した自作(曲亭馬琴の代作とも)の絵双紙『絵本千本桜』が好評を博している。
文政12年(1829)〜天保13年(1842)にかけて刊行した柳亭種彦『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』(『源氏物語』の世界を、時代を室町に設定して、翻案したもの)は一大ブームを巻き起こした。
ところが、天保13年(1842)、天保改革により、『偐紫田舎源氏』は絶板処分となってしまう。
以後、衰退したとされるが、鶴屋喜右衛門は明治まで続いている。
蔦重と日光旅行に
ドラマでは今のところ、良好とは言い難い関係の鶴屋喜右衛門と蔦屋重三郎だが、二人は手を組み、戯作者で浮世絵師の古川雄大が演じる山東京伝(さんとうきょうでん/画名は北尾政演)の囲い込みを図ったとされる。
曲亭馬琴(『南総里見八犬伝』の作者)による山東京伝の伝記『伊波伝毛乃記』には、「天明(1781〜1789)の末に、書肆蔦屋重三郎、鶴屋喜右衛門等とともに、日光御宮並に中禅寺に参詣せしことあり」と、蔦屋重三郎、鶴屋喜右衛門等ともに、日光に参詣したことが綴られている。
また、寛政4年(1792)、山東京伝の煙草入れ店の開店資金集めの書画会(御祝儀を貰い、色紙や短冊に、絵や狂歌を書くイベント)でも、「是日、書肆鶴屋、蔦屋、酒食の東道したりき」と、蔦屋重三郎と鶴屋喜右衛門が、客の酒食などの費用を拠出したことも記されている。
原稿料を払う習慣を、蔦重と共に作った?
この時代、従来、戯作者に潤筆料(原稿料)を支払う習慣がなく、版元は、吉原や両国の料亭などで接待することにより、原稿を書いて貰っていた(松嶋雅人『蔦屋重三郎と浮世絵』)。
だが、『伊波伝毛乃記』によれば、寛政年中(1789〜1801)に、山東京伝と馬琴の書いた草双紙(黄表紙)が大流行するにおよび、鶴屋喜右衛門と蔦屋重三郎は相談の上、初めて二人の著作の潤筆料を定め、他の版元で作品を書くことがないようにしたという。
馬琴は、作者に原稿料を払う習慣は、鶴屋喜右衛門と蔦屋重三郎から始まったと述べている(以上、現代語訳参照 佐藤至子『蔦屋重三郎の時代 狂歌・戯作・浮世絵の12人』)。
また、山東京伝の弟・山東京山が著した『山東京伝一代記』には、寛政3年(1791)より5、6年前、すなわち、天明5、6年(1785、1786)頃から、原稿料を得ていたことが記されている。
いずれにせよ、鶴屋喜右衛門と蔦屋重三郎は仕事上、手を組むことはあったのだろう。
今後はドラマでも、協力し合う二人の姿が、観られるかもしれない。
筆者:鷹橋 忍