『光る君へ』赤染衛門はどんな人?中古三十六歌仙の一人、源倫子、中宮彰子に仕え、辛口の紫式部も高評価だった歌人

2024年3月4日(月)8時0分 JBpress

今回は大河ドラマ『光る君へ』において、黒木華が演じる源倫子の女房で、まひろ(紫式部)や姫君たちに学問を指南する、凰稀かなめが演じる赤染衛門(あかぞめえもん)を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 


赤染衛門とは

 赤染衛門は、中古三十六歌仙の一人に数えられる女流歌人である。家集『赤染衛門集』を残した。

 藤原道長の栄華を中心に、宇多天皇から堀河天皇まで15代、約200年間の歴史を描いた歴史物語『栄花物語』の正編の作者ともいわれる。

 赤染衛門の歌才は『和泉式部日記』で知られる和泉式部と並び称され、当時の「二女流歌仙」とうたわれた。

 百人一首にも、赤染衛門の歌が見られる。

やすらはで寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな

(来て下さらないとわかっていたら、ためらうことなく寝てしまいましたのに、いらっしゃるとの言葉を信じて待ち続けていたら、夜が更けて、西の空に沈もうとする月まで見てしまいました)


秋山竜次が演じる藤原実資と同じ年?

 赤染衛門の生年は定かでないが、上村悦子『王朝の秀歌人 赤染衛門』では、天徳元年(957)ごろと推定している。

 ここでも仮に、赤染衛門の生年を天徳元年で計算すると、秋山竜次が演じる藤原実資と同じ年で、康保3年(966)年生まれの藤原道長より9歳年上となる。

 紫式部の生年は諸説あるが、仮に天延元年(973)年説で計算すると、赤染衛門は紫式部より16歳年上である。

 赤染衛門の父は、赤染時用(ときもち)だったとされる。時用は、衛門府に仕えた中下級官人だった。赤染衛門の名は、時用に由来するという。

 だが、時用は赤染衛門の実の父親ではなく、本当の父親は平兼盛だといわれる。


本当の父は平兼盛?

 平兼盛は、三十六歌仙の一人に数えられた著名な歌人である。

 天徳4年(960)3月30日の天徳内裏歌合(村上天皇が催した歌合わせ)において、

しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで

 という歌で、壬生忠見の

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

 という歌に勝ったといわれる。どちらの歌も、『百人一首』に収められているので、ご存じの方も多いだろう。

 平安後期の歌論書『袋草子』には、赤染衛門の曾孫・大江匡房が著した「江記」から引用する形で、赤染衛門の母は、この平兼盛から離別された後に、赤染衛門を産んだ。兼盛は赤染衛門を引き取りたいと訴訟を起こしたが、赤染衛門の母は時の検非違使・赤染時用と密通して、赤染衛門を時用の子と主張。けっきょくのところ、兼盛の訴えは叶わなかったという話が記されている。

 この話の真偽は定かでないが、当時、「赤染衛門の実父は平兼盛」と信じる人々は多かったとされ、赤染衛門自身も実父は平兼盛だと知っていたともいわれている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』 東海林亜矢子「第十章 年上女性たちとの交流 ——源倫子と赤染衛門」)。


源倫子に仕える

 やがて、赤染衛門は益岡徹が演じる源雅信と、その妻である石野真子が演じる藤原穆子が暮らす邸に出仕し、源倫子に仕える女房となった。

 倫子は康保元年(964)生まれであるので、赤染衛門の生年を天徳元年で計算すると、赤染衛門のほうが7歳年上である。

 赤染衛門は、主人宅に与えられた房(部屋)で暮らした(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』 西野悠紀子 第十一章「道長と関わった女房たち① ◎赤染衛門と紫式部」)。

 倫子が永延元年(987)に藤原道長と結婚したのちも、倫子や、倫子と道長の子で、塩野瑛久が演じる一条天皇の中宮である、見上愛が演じる彰子に仕えている。

 赤染衛門は、同じく彰子に仕えた紫式部や、ファーストサマーウイカが演じる清少納言、和泉式部らとも交流があった。

 紫式部は『紫式部日記』のなかで、和泉式部は「それほど和歌に精通していない」、清少納言は「得意顔もはなはだしい」などと辛口な批評をしている。

 だが、赤染衛門に関しては、「その歌は格別に優れているというほどではないですが、実に風格があり、世に知られている彼女の歌は、ちょっとした時に詠んだ歌でも、こちらが恥ずかしくなるほど、立派な詠みぶりです」と、和泉式部や清少納言に比べると、高評価である。


赤染衛門の夫・大江匡衡とは?

 出仕している間に、赤染衛門は大江為基(おおえのためもと)との恋愛を経て、為基の従兄弟である大江匡衡(まさひら)と、天延3年(975)から2〜3年の間に結婚したとされる(塩田良平『王朝文学の女性像』)。

 赤染衛門の夫となった大江匡衡は、どのような人物なのだろうか。

 大江匡衡は漢詩文に秀でた学者で、文章博士や東宮学士、一条天皇の侍読など務め、当代随一の碩儒とうたわれた。

 漢詩のみならず和歌の才にも恵まれ、妻・赤染衛門とともに中古三十六歌仙に数えられている。

『今昔物語集』巻第二十四 第五十二によれば、背が高く怒り肩で、風雅の才があったという。赤染衛門より5〜6歳くらい年上だったと思われる。

 赤染衛門と匡衡の結婚も当初は通い婚であり、倫子邸の局で生活する赤染衛門のもとに匡衡が通っていた。

 また、赤染衛門の曾孫・大江匡房の曾孫は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で栗原英雄が演じた大江広元だといわれる。

●『鎌倉殿の13人』大江広元はどんな人?頼朝の知恵袋として幕府を支えた官人|「鎌倉殿」とゆかりの地(第6回)


母として、妻として

 赤染衛門と匡衡は、娘の江侍従(ごうのじじゅう)や、息子の挙周(たかちか)など、わかっているだけでも、一男二女の子に恵まれた。

『今昔物語集』巻二十四 第五十一には、息子の挙周が病に罹り、日に日に病状が重くなっていくので、赤染衛門は住吉明神に挙周の病気平癒を祈り、御幣の玉串に

代らむと 思ふ命は惜しからで さても別れむ ほどぞ悲しき

(子の命に代わろうと思う私の命は少しも惜しくはないが、そのためにこの子と別れなければならないのが、悲しく思われることだ)

 という歌を書いて奉ったところ、挙周の病は、その夜に治ったという話が綴られている(校注・訳者 馬淵和夫 国東文麿 今野達『今昔物語集 本朝世俗部一完訳 日本の古典30』)。

 また、赤染衛門と匡衡の夫婦仲は良好だったといわれる。

 赤染衛門は、受領となった匡衡が長保3年(1001)と寛弘6年(1009)に尾張守に任じられたときも、翌寛弘7年(1010)に希望して都に近い丹波守に代わったときも、都での生活を捨てて、匡衡に同行している。

 だが、匡衡は長和元年(1012)に、61歳でこの世を去った。

 赤染衛門は夫の死を嘆き悲しみ、やがて出家したという。

 その後、長久2年(1041)に、曾孫となる大江匡房(まさふさ)の生誕を祝った歌があるので(『赤染衛門全集』)、彼女の没年は不明だが、この年まで生存が確認できる。

 この年、赤染衛門は数えで85歳。夫の死後も、強く生き抜いたのだ。


赤染衛門ゆかりの地】

●赤染衛門歌碑公園

 赤染衛門が、衣をかけた松があったとされる公園。愛知県稲沢市にあり、赤染衛門衣かけの松跡碑が建つ。

筆者:鷹橋 忍

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