『光る君へ』道長が逝き<天皇家最強の家長>となった彰子。君臨の背景に「道長と同等以上の権威」を持ったあの人の存在が…【2024年下半期ベスト】

2025年3月5日(水)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

2024年下半期(7月〜12月)に配信したものから、いま読み直したい「ベスト記事」をお届けします。(初公開日:2024年12月13日)
******
大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回は天皇家の最強の家長と大きな後見人について、新刊『女たちの平安後期』をもとに、日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。

* * * * * * *

そして彰子がトップに立つ


一条・三条・後一条の三代にわたる天皇家の中枢にいる、事実上の王権の構成員が、後一条・後朱雀兄弟と、3人の后の5人だけという体制がリスキーだということは、おそらく道長が一番知っていた。

何しろ彰子が道長より格上だったのである。

道長はこの任務を終えるとまもなく太政大臣を辞して、翌年には病によって出家する。

糖尿病等による健康不安もあったのだろうが、これで臣下の序列から離れて「大殿」となり、外部から王権をコントロールできる立場になった。

政務の実権は関白となった頼通に譲ったが、ストレスフリーな後見人になったのである。

出家して法名行観となった道長は、自宅土御門殿の東、鴨川の川沿いに法成寺無量寿院を建立したが、『栄花物語』には、諸国の受領が造営の負担を割り当てられ、積極的に加わったことが記されている。

彼の権威は依然として健在だった。

生きた守護神


しかし、ここで改めて知っておいていただきたいことがある。


『女たちの平安後期—紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

彰子が道長より格上だということは、道長の後継者となった弟の摂政頼通よりも格上だということである。

そして太皇太后だから当然、皇太后や皇后よりも上なので、まさに彰子は、たった5人(後一条、敦良、彰子、妍子、威子)の天皇家の家長として君臨することになる。

そして彰子は万寿3年(1026)には正式に出家して、伯母の皇太后藤原詮子の東三条院を前例に、藤原氏の中宮経験者では初めて、上東門院という女院となる。

要するに行観(リタイアした藤原道長)と同じ立場で、法名清浄覚という最高位の尼でありつつ、太皇太后であり女院(つまり天皇の母である女性の上皇)という、ものすごい身分の女性となった。

そして翌、万寿4年についに道長が没すると、名実ともにその地位は明確になる。

法成寺の東北に道長の菩提を弔う阿弥陀仏を祭る「東北院」を建立したのは彰子であり、彰子は天皇家と摂関家の双方に君臨する地位を、道長から引き継いだ。

ここに、まさに後一条天皇の「生きた守護神」であり、天皇家の最強の家長が誕生したのである。

大きな後見人


そして道長体制には、もう1人大きな後見人がいた。

道長の正妻で、彰子の母の源倫子である。


(写真提供:Photo AC)

寛弘5年(1008)、敦成親王の誕生にあたり、倫子は従一位に叙せられた。

道長の推薦とはいえ、当時正二位だった道長より上位になった。

そして長和6年(1017)以降は道長が従一位になり、同位でいつづける。

道長引退後の倫子


倫子は道長が出家したのちも長暦3年(1039)まで出家しなかったようで、道長が安心して出家できるバックアップになっていた。

『大鏡』は、道長全盛時代に唯一源氏でありながら彼女が「幸ひ」人だったといい、『栄花物語』は、倫子の存在があってこそ道長の栄花が達成できたとする。

しかし彼女が、道長が引退したのちも摂関家の中心でいつづけたことはあまり注目されていないようだ。

道長没後も彰子がその権威と権力を行使できたのは、道長と同等以上の権威を持つこの母が現役だったことが大きいだろう。

それは、摂関家の女性集団における彰子のポジションとも関係してくる。

※本稿は、『女たちの平安後期—紫式部から源平までの200年』(中公新書)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

「光る君へ」をもっと詳しく

「光る君へ」のニュース

「光る君へ」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ