坂本龍馬よりも重要な役割を果たした?近藤長次郎とユニオン号事件、その経緯と暫定解決、近藤の立ち位置

2025年3月5日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


高杉晋作・伊藤博文の近藤長次郎への対応

 慶応元年(1865)11月8日頃、ユニオン号で近藤長次郎は下関に到着し、高杉晋作と伊藤博文が出迎えた。高杉は木戸孝允に近藤の到着を知らせ、至急の来関を求め、難しい場合は木戸の代わりに海軍局の中島四郎らを派遣することを要請したのだ。

 伊藤も木戸に書簡を発し、近藤は長崎在番の薩摩藩士が俗論を吐き続けたため、ユニオン号の購入には大変に苦労した。しかも、英国留学を志していたが、長州藩のため2、3ヶ月ほど出発が遅れてしまった。木戸が近藤を疎かにするとは思っていないが、何とか藩政府から御礼をして欲しいと開陳した。

 具体的には、伊藤は100から200両くらいを近藤に渡してもよいのではないかとまで要請し、近藤への最大限の気遣いを示した。また、伊藤は薩摩藩の実情を直接、近藤から聞いて欲しいと述べ、木戸本人と井上馨の来関も要求した。高杉と伊藤はこの状況に対処できないと判断し、また、近藤の一筋縄ではいかない尽力に報いる必要を痛感していたのだ。

 なお、近藤自身も木戸に対して、井上の即刻の来関を強く要請する書簡を発した。しかし、その書簡を回覧した井上は、近藤が実直すぎるため、親しい人間でないと交渉がうまくいかないと述べ、12日には下関に到着したいとの意向を木戸に伝えている。


ユニオン号事件の勃発

 井上と対面を果たした近藤は、伊藤も加えた3人で山口に赴いた。11月18日、近藤は藩主毛利敬親に謁見を許され、短刀を拝受し、労をねぎらわれた。近藤にとっては9月7日以来、2回目となる藩主との謁見であり、想像をはるかに超えた厚遇である。

 長州藩の近藤に対する、感謝の念と一層の期待が大きかったことは間違いない。一方で、その際に伊藤が示唆した金銭の受領は実現しておらず、藩政府で検討した形跡も確認できない。

 11月22日、藩政府はユニオン号(薩摩藩名・桜島丸)を乙丑丸と命名し、海軍局の中島を「惣官(総管)」にすることを沙汰した。そして下関において、近藤と木戸、井上、中島らが購入後の運用について協議することを命じた。しかし、近藤は桜島条約の履行を強く求めて譲らず、事態は紛糾することになる。

 木戸は自ら長崎に赴き、在番の薩摩藩士と談判することを主張したが、藩政府は政務の多忙を理由に許可しなかった。そこで、木戸は井上を上京させることを進言した。12月1日に至り、藩政トップの山田宇右衛門はこのままでは薩長間で嫌疑が生じるとして、この間尽力してくれた薩摩藩の小松帯刀らが在京しているため、長州側から井上を派遣して調停に努めることを命じた。ユニオン号の購入は、薩長間に亀裂が入りかねない、ユニオン号事件に発展したのだ。なお、井上の上京は実現しなかった。


ユニオン号事件の経緯と坂本龍馬

 12月3日、龍馬が下関に到着した。その目的は、木戸から幕府との広島談判の結果や長州藩の対応を聞き取ることにあった。しかし、期せずしてユニオン号事件に巻き込まれてしまったのだ。

 近藤は井上と取り決めた桜島条約を盾にして、断固として長州藩への引き渡し要求を拒んだ。海軍局代表の中島と龍馬に対し、明文化した桜島条約を開示して、その履行を求めて譲歩しなかった。

 中島は桜島条約を改正し、ユニオン号を乙丑丸として自藩のものにすべく近藤に依頼した。しかし、近藤は代金の完済がなされていない以上、ユニオン号は長崎に回航すると主張して止まなかった。それに対し、龍馬は代金支払いを延期した上で、ユニオン号を上方に回航し、木戸が小松らと協議することを提案した。龍馬の案は高杉の同意を得たものの、近藤はここでも譲らなかった。

 龍馬の説得もむなしく、ユニオン号が来関して1ヶ月以上、長州藩の海軍局と薩摩藩の社中の間で桜島条約の履行をめぐって混乱が続き、収拾の目処すら立っていなかった。史料的には、まるで近藤が1人で長州藩相手に奮闘しているように映り、確かに近藤が社中の窓口となっていたことは間違いない。

 とは言え、おそらく他の社中メンバーも一致団結して長州藩の要求を拒否していたのだろう。薩摩藩の看板を背負った社中が、長州藩を相手に困難な外交交渉を続けていたのである。


新桜島条約による解決の可能性

 慶応元年12月の後半に至り、ようやく事態が動きだす。中島の書簡(木戸宛、12月24日)によると、木戸からの指示は、大事件は高杉、小事件は越荷方(藩営の商社)に相談することだった。しかし、高杉は任に堪えないとして投げだし、ユニオン号の問題は混乱ばかりで終息の気配がない。高杉、中島に龍馬が加わって説得しても、近藤が頑として応じないと、中島はその状況を嘆き、自身も惣官を辞職したいと木戸に申し送った。

 また、井上は書簡(木戸宛、12月24日)で、龍馬が言う通り、木戸が上京して薩摩藩士と談判し、ひとまず方向性を決めて、早く混乱を収拾した方が良い。木戸が同意であれば、中島ら海軍局の幹部とともに、下関から上京すれば本件も片付くと提案した。一方で、社中の者とは同じ議論の繰り返しとなり、刺し違えるなどと過激な議論になると述べ、木戸の来関を強く期待したのだ。

 12月25日、海軍局が作成した新桜島条約が藩政府に提出された。そこには、旗号は島津家のものを借用するとしたものの、ユニオン号は長州藩籍と認定し、海軍局・総管の権限が絶対となった。これを契機に、事態は急展開を見せる。

 旧条約では社中が長州藩から頼まれたので、盟約したと記載されていたのに対し、新条約では社中は「薩州より御乗込士官」と軽く規定され、今後も乗船させるが長州藩側の意向に沿うことを条件とされた。また、長州藩の使用に空きがある時は薩摩藩が利用できるという部分は踏襲しているが、費用は薩摩藩が賄うとしており、一転して長州藩に有利な内容に変化したのだ。 


ユニオン号事件の暫定解決と近藤の立ち位置

 12月26日、長州藩政府は山田宇右衛門に下関への出張を命じた。龍馬の書簡(長府藩士・印藤肇宛、12月29日)には、28日に海軍局幹部を伴った山田が直々に来関したことを伝えた。そして、交渉はこれからとしながらも、交渉当日中での妥結を示唆する、楽観的な姿勢が見られる。事実その通り、山田と社中の交渉によって、ユニオン号の長崎回航を条件に、新桜島条約の採用を前提にして、とりあえず事件は終息の方向で妥結した。

 頑強に抵抗していた近藤が妥協した理由は、長州藩主の名代とも言える藩政府トップの山田宇右衛門が来関したことも大きかったであろう。何より、木戸の上京が差し迫っており、これ以上、薩長間で揉めることのリスクを回避したかったのだと考える。

 龍馬からも近藤に対して説得が試みられ、山田到着までにはおおよその妥協の方向性は決定していたと考えられる。なお、新条約では宛名に近藤の名が見られないため、近藤のみが最後まで反対していた可能性も否定できないが、旧条約の乗組み士官にも近藤の名前はない。

 推測の域を出ないものの、予定されていた海外留学のため、近藤の名前はこの段階から割愛されたのではないだろうか。近藤が、第2次薩摩スチューデント(慶応2年3月28日)に選ばれていた可能性を指摘しておこう。

 近藤長次郎は薩摩藩士として、全身全霊をかえて薩長融和のために尽力した。その範囲は、多方面に及び、彼の活躍なくしては「小松・木戸覚書」(いわゆる薩長同盟)には至らなかったと考えるのが妥当である。

 その過程で、ユニオン号事件が惹起し、近藤自身もその渦中に放り込まれたが、最後は近藤の妥協によって、何とか事なきを得た。せっかくの薩長融和の機運が、しぼむかも知れない瀬戸際であったのだ。

 いずれにしても、薩長融和における近藤の存在は際だったものであり、むしろ坂本龍馬よりも重要な役割を果たしたのかも知れない。近藤長次郎が、歴史に埋もれた偉人であることは、疑いがないのだ。

筆者:町田 明広

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