伝説のプロレスラー「タロー三宅」の偉業がヤバイ!

2024年3月7日(木)17時8分 tocana


 タロー三宅(もしくは三宅タロー)とは、 明治から昭和にかけての日本出身の柔術・柔道家であり、 またプロレスラーとして活躍した人物である。日本で最初の国際プロレス大会を開き、また20世紀初頭にイギリスでの柔道の確立に貢献した存在としても知られている。
 1881年に岡山で生まれた彼は、不遷流柔術の田辺虎次郎の開いた明武館にて柔術を学び、20歳で上京後は修武館で修業を積んでいった。その腕は非常に強力なものであり、明治36年に大阪で開催された「全国武術選手権大会」では、柔道・柔術各派の強豪をものともせず優勝を果たすほどであった。のちに虎次郎の息子又座衛門の紹介によって神戸警察署柔道師範となったが、酒に酔ったことで港湾労働者30人を相手に喧嘩をしてしまったことで職を辞してしまった。
 彼はその後にフランスへ渡り、またイギリスで柔道教師を始めることとなった。彼はロンドンでショーやミュージックホールなどを巡って柔術の試 合を行ない、そこで柔術の現役王者である谷幸雄を破って一躍有名になったのだ。この頃から三宅は、ブームとなっていたプロレスに興味を抱いていたと言われており、1908年には同郷であった柔術家の上西貞一や前田光世といった 仲間とヨーロッパを巡り、50年を超えて無敗であり続けたインドの世界チャンピオン、グレート・ガマと対戦したこともあった。
 彼が本格的にプロレスへ関与し始めたのは、1914年の渡米した後であった。シアトルを拠点として活動していた彼は、世界ヘビー級王座を3度も獲得し「ストロングラー」の異名を持ったアメリカのプロレスラー、エド・ルイスのもとでプロレスラーとして働き始めた。そして、彼が一躍有名プロレスラーとして知られるようになったのは、世界最強とまで言われ無敗のまま引退したプロレスラー、フランク・ゴッチのエキシビジョンマッチに出場したことによる。30分フルタイムを戦い抜いたことでゴッチに認められたことによ って、ついに彼はスターレスラーの道が開けたのである。
 アメリカで彼は「メケ・ミヤケ」、在留邦人からは「タロー三宅」と呼ばれ、自分よりも身長の大きなレスラーの手首をつかんで投げ飛ばす「 ミヤケ投げ」は、全米のレスラーに恐怖を与えるほどであったという。そうした華々しい活躍をしていた彼は、1928年に日本へ帰国し、そこでプロレス興行(凱旋興行) を行なうこととなった。対レスラーの選手を探す中で、 大相撲の年寄千賀ノ浦をはじめとして数人の力士をスカウトし、不遷流の寝技の奥義を叩き込み、さらに欧米人3名を引き連れて、それぞれに「二州チャンピオン」などと名乗らせ、 その興行内容を整えていった。
 そして、明治神宮外苑相撲場で「日英米レスリング競技大会」 開幕戦が開催され、その後、日比谷公会堂を二戦目として、さらに静岡、大阪、奈良と一年いっぱい興行が展開されていった。 しかし、当時はプロレスという競技自体が日本ではあまり知られていなかっ たということや、選手の知名度が無かったことも相俟って、 興行的には大失敗に終わってしまったという。その後彼は米国へ戻り、晩年に再び帰国した彼は故郷である岡山の地で1935年に没した。
 当時の日本には馴染まなかったせいであろうか、彼のプロレス興行は奮うことが無かった。しかし、 一方で大きな収穫も果たしている。1930年、彼はのちにプロレスのレフェリーとなる沖識名(おきしきな) をハワイでスカウト、不遷流柔術やプロレスの技を伝授したという。 沖といえばプロレスに転向した力道山のコーチを務めた人物でもあり、そのため力道山はタロー三宅の孫弟子とも言える。プロレスが日本の地で芽吹いていくようなその下地は、彼によってもたらされたと言っても良いだろう。


【参考記事・文献】
柔術柔道出身 日本人プロレスラー Taro Miyake タロー三宅 三宅多留次
昭和3年10月、日本で最初の国際プロレス大会を開いたのは…… 『タロー三宅』


【文 黒蠍けいすけ】


【本記事は「ミステリーニュースステーション・ATLAS(アトラス)」からの提供です】


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