特別対談:田原総一朗v.s池口恵観

3月12日(金)6時0分 JBpress

 かつては八百万の神という概念が人々の間に深く浸透し、また、長い間、国難には神風が吹く神の国と信じられてきた日本だが、昨今、宗教離れが加速している。

 特に、伝統仏教に対してそうした傾向は顕著だといわれる。日本人は、なぜ、宗教を必要としなくなったのか。神仏を信じる必要がなくなったのか。

 日本のご意見番である田原総一朗氏と高野山真言宗宿老の池口恵観氏に混迷の時代における宗教の役割について話を聞いた。

田原総一朗:人類の歴史は人間同士の争いの歴史といえます。そして、いま、世界を見回してみますと、相変わらず人は人と争っています。

 その要因は大きく分けて2つあり、一つは地域や国家の利権など経済的政治的要因、すなわち領土や権益といったもの。

 そして、もう一つは宗教があります。

 領土問題というのは話し合いで解決する余地がある場合もあります。権益もまた同じです。双方が主張を譲りながら妥協点を見いだすことで、紛争は解決する。

 そうした例は多いですが、宗教に関する争いは、もっと複雑です。

 ローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけた十字軍はイスラム教とキリスト教の争いであり、1947年のインド・パキスタンの分離独立にはヒンドゥ教とイスラム教の対立が引き金となりました。

 最近では、旧ソビエト連邦のアルメニアとアゼルバイジャンの戦闘の根底にキリスト教とイスラム教の対立という要素があります。

 また仏教国であるミャンマーにおいてはイスラム教の少数民族ロヒンギャの迫害など、いまも宗教的な要因で世界各地で争いが続いています。

 最近ではフランスの学校の先生がモハメッドの風刺画を授業中に生徒に見せたことで、イスラム過激派の男に首を切られること事件もありました。

 イスラム教の中でも同じモハメッドが起こした宗教でありながらスンニ派とシーア派という立場の違いで、いまだ中東では争いが続き、解決する兆しが見えていません。

 つまり、宗教は人々を平和に導くのではなく、逆の宗教こそが民衆、地域、世界、時代のそれぞれを、混迷へと引っ張っているという現実が見て取れます。

池口恵観:かつて日本では宗教弾圧ともいえる比叡山焼き討ち、一向一揆、島原の乱などは宗教と権力の対立という構図でした。

 しかし、日本においては宗派間の紛争というのはあまりなく、日本の戦国時代に起きた日蓮宗(法華宗)と浄土真宗本願寺教団の対立から生じた法華一揆くらいで、日本は宗教に対し、信仰の違いにおいては寛容といえます。

 対立があったとしても、せいぜい自らの優位性をアピールするくらいで、真言宗と浄土宗が武力をもって対立したとか、殴り合いのけんかをしたなどという話は聞いたことはありません。

 宗教宗派の違いで殺し合うというのは、いまの日本人には理解するのは難しいかもしれません。

:日本は若い世代を中心として、無宗教の人々が増加する傾向にあるといわれます。

 もともと、日本人の年中行事はクリスマスを祝い、新年は神社に初詣を行くといったものが定着していますが、それはセレモニーとしての習慣で、必ずしも信仰というものではないようです。

 しかし現在、年齢を問わず日本人全体の傾向として宗教離れが加速している傾向があります。

 先祖代々続いたお墓を墓じまいをする人が増えたり、離檀交渉や手続きを代行するサービスがあったり、葬式ではお坊さんを手配するサービスが人気で価格が明瞭でネットでも予約ができたりします。

 こうした状況はますます加速し、定着するのでしょうか。

池口:そうした傾向は、日本の宗教家や、仏教の各宗派の僧侶の責任といえます。

 時代の流れに宗教が取り残されていったことも宗教離れの要因の一つといえます。また、かつてのように宗教家やお坊さんが頼りにされたり、尊敬されたりしなくなったのも宗教離れの要因ではないでしょうか。

田原:日本人には欧米と違ってチップの慣習がなく、また寄付をする人も少ないようです。値札を見て買い物をする習慣が浸透しているので、定価のないものに不安を感じるのかもしれません。

 実際、葬儀や戒名のお布施がいくらかかるのか不明瞭といったことが現実にいまの時代にそぐわないと考える人は多いのではないでしょうか。

 インターネットで商品を買うのが主流の時代に、いくら伝統といえども値付けをしないというのは、中世の商売方法がそのまま現代に続いているということになります。

 宗教が時代に取り残されていると感じる人がいても不思議ではありません。

池口:仏教が日本に入ってきた飛鳥時代から江戸時代まで、寺とは本来、その役割は神仏に近づく場所、祈るための場所でした。

 しかし、現存する歴史のあるお寺は、寺という本来の役目よりも、一種の観光スポット、テーマパーク化していると言ってもいいかもしれません。

 すべての宗教の原点は祈りが人々に安寧をもたらすという、その働きが尊ばれたことで自然派生し、そこで祈りが実践されることでキリスト教、イスラム教、仏教など世界の宗教は拡大してきた経緯があります。

 祈りが心の安らぎももたらす。祈りが精神の癒しにつながるということが信仰に結びついたのです。

田原:かつての宗教には社会や時代を変える力がありました。しかし、いまの日本に、開祖たちの熱意や情熱をもった宗教家がどれだけいるのでしょうか。

 一方、日本の国民はと言うと、将来に対するビジョンを持てなくなっている。言ってみれば国民みんなが不安を抱いています。

 同時に、企業もこの先の展望が開けずにいるから、企業の本質的行動である投資にためらい、内部留保に走る。日本の大企業は大変な預貯金を抱えるようになっています。

 人々が不安を抱え、企業も指針が定まらない。こういう時代には本来、宗教がもっと盛んになっていいはずです。

 ところが仏教も檀家や信徒がどんどん減っています。

 人間が幸せに生きるために将来の展望をどうつくっていくか。宗教家はそこを考えなければならないのではないでしょうか。

 人間は理性だけでは生きていけません。パナソニックを一代で築き上げた経営者・松下幸之助はもともと天理教の信者でした。

 京セラ・KDDIの創業者、稲盛和夫氏はかつて、新宗教団体である「生長の家」を信仰していました。

 なぜ、経営者は宗教を信じるのか。それは大勢の従業員や家族を養わなければならず一個人の理性だけで、それを担うのは困難だからなのかもしれません。

池口:私のところにも数多くの経営者が相談にいらっしゃいます。どんな大会社の経営者であっても生身の人間です。みな心の内に孤独と不安を秘めています。

田原:いつの時代でも、人間の精神的な渇きというのは癒えることはありません。

 切っても切れない家族関係、人間関係の改善であったり、思い通りにならない人生を何とかしたいと思ったり・・・といったことは時代を問いません。いつの時代でも、誰しもが心に秘めた悩みをもっている。

 いま、日本の雑誌やネット記事では、盛んにお寺や神社を取り上げている。お寺や神社の情報がこれほどあふれている時代はかつてありませんでした。

 ところが、その実態をよく観察すると、みんながみんな宗教を求めているというわけでもない。では、何を求めているのか。

 それは表面的な自分の気分が少し楽になるものを求めている。御朱印を集める。写経をする・・・。

 この行動の背景にあるのは、心の奥に刺さる棘を抜きたいといった思いがあるのではないか。そうした欲求は誰でも多かれ少なかれかならず抱えているものです。

 では、今後、伝統的な仏教は何ができるでしょう。宗教に何が担えるでしょうか。

池口:高野山の奥の院の手前には、天下人や大名など権勢を振るった人たちのお墓が延々と続いています。

 なぜ、そこに数多くの権力者の墓が集中してあるのでしょうか。

 それは、かつて存在した高野聖の活躍によるものです。高野聖は高野山の正式な僧侶ではなく半僧半俗の宗教者でしたが、全国の弘法大師伝説を広めました。

 彼らがいなければ全国に点在する真言宗寺院のほとんどが存在しなかったといわれています。

 なぜ、高野聖がこうした働きができたのか。

 高野聖の遊行が始まったのは、高野山が火災に遭い、これを建て直すために全国に派遣されたのがきっかけです。

 もっとも、全国を遊行した僧侶は真言宗だけでなく、他の宗派にも大勢いたはずです。

:高野山のお墓にこれほど多くの歴史の権力者が密集するエリアは、日本国内はもちろん、世界的にも例を見ませんね。

池口:高野聖たちは、なぜ、こんなに多くの大名や将軍たちの墓を誘致できたのか。それは祈祷の成果といわれています。

 祈祷とは通常の人の力を超えた不思議な力を扱うことで、施政者、貴族、武将たちの信頼を得たと伝えられています。

 真言密教が他の宗教と明らかに違うのは、神秘の力の作用である呪術を操ることだといえます。

 古代も現代でも、医者が治せる病気と直せない原因不明の病気があります。医者が治せない病気には目に見えない存在が関係している、と密教では捉えます。

 そういうものを祈祷によって払い落とす。

 高野聖の祈祷により権力者やその周りの家族などの病が治るなどした結果、高野聖は頼りにされ、多くの権力者や有力者から寄進を受け、お墓を誘致することができたといわれています。

 私はその高野聖の力である密教の祈り方を現代の人に広く知ってもらおうと「高野聖の会」 (https://www.kohyahijiri.com/)という会を立ち上げました。

 密教の祈りは伝統的に壇を構えて法具を使い、真言を念誦するなど複雑なものですが、中には簡単にできるものもあるのです。

田原:しかし、そういった神秘の力を現代では信じない人が多い。単なる伝説であって、科学で証明することができないものは存在しないと主張する人も実際のところ多いですね。

池口:人は目の前の見える世界のみを信用しがちです。

 しかし、人間はもともと霊的な存在で不思議な力が誰にでも宿っています。

 かつては病気の人に対して霊力で病を治すといったことは、普通に行われていました。例えば、手あてというのは、いまは医者や看護婦さんが患者さんに処置することを意味します。

 しかし、その語源は、手をあてて人を癒したことからきています。

 現代人が忘れてしまった能力ですが、誰にでも備わる秘められた力であり、その気になれば、私たちも手をあてるだけで癒しの力は発揮されるのです。

 そうした事実に気がつけば、私たちは身近な肉体的、精神的問題の多くを解決できる、私はそう思うのです。

 いま、世界を席巻する宗教は、祈りが人々の心に安寧をもたらしたことで自然派生し、それが信仰となり拡大したのが起源であり、かつて宗教は社会や時代を変えるパワーがあった。

 いま世界の宗教は対立しており、人々を平和に導くのではなく、時代を混迷へと引っ張っているという現実がある。

 日本において宗教離れが進むのは開祖たちの熱意や情熱をもった宗教家が現代にいなくなったためなのか。

 それとも宗教自体が人々の心の安寧をもたらす威力がなくなり、その存在価値が失われたためなのか。

 混迷の時代、かつて宗教がもっていた祈りの力をもし、現代の伝統仏教が取り戻すことができたとしたならば、日本人の伝統的宗教に対する捉え方が少しは変わるのかもしれない。

筆者:池口 恵観

JBpress

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