武田家はなぜ滅亡したのか?勝頼がリーダーとして信頼を失ってしまった理由

2024年3月13日(水)5時50分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


景勝と和睦、景勝・景虎の和平を仲介した勝頼

 長篠の戦い(天正3年=1575年5月)で、織田信長・徳川家康連合軍に敗れた武田勝頼ですが、すぐに衰退し、滅亡してしまったわけではありません。武田家の滅亡は、天正10年(1582)3月のことです。長篠の戦いから、7年の歳月が流れていました。よって、武田家滅亡の真因は、長篠合戦の敗北とは別にあったと言えましょう。武田家はなぜ滅亡してしまったのでしょうか。

 長篠合戦直後から、家康は反転攻勢をかけ、駿府にまで侵入し放火、遠江国の武田方の諸城(犬居城・光明城・勝坂城など)を次々に攻略していきます。続いて、家康は小山城(静岡県吉田町)を攻囲しますが、9月上旬、勝頼が1万3千の軍勢を率いて後詰(後方に控え、必要に応じ味方を応援をする)に駆けつけたため、家康は小山城や高天神城(掛川市)を攻略すること叶わず、引き上げていきました。

 勝頼も、小山城を普請し、高天神城に兵糧を入れ、引き上げます。が、徳川軍に5月から攻囲された二俣城(静岡県浜松市)の救援は叶わず、同城は同年12月に徳川の手に落ちました。徳川のみならず、織田も武田に攻勢をかけてきました。

 同年6月には、東美濃の岩村城(武田重臣・秋山虎繁が籠城)を攻囲。11月になり、勝頼は後詰に向かいますが、雪により身動きができず。とうとう、岩村城は11月下旬、開城します。軍事的に苦戦する勝頼ですが、同年11月頃には、越後の上杉謙信と同盟を結ぶことに成功します。

 元来、この同盟は、室町幕府15代将軍・足利義昭が勧めていたことではあるのですが、当初、両者はこれに応じようとはしませんでした。それが、長篠合戦直後に一転、ついに同盟が成立したのです。

 信長と謙信も同盟を結んでいましたが、武田・上杉の同盟によって、勝頼は織田・上杉の双方から攻撃される心配はなくなりました。信長は岩村城攻撃に呼応して、謙信に北信濃に出兵するよう要請していました。織田軍もまた謙信とともに信濃に流れ込み、武田方に痛撃を与えようとしたのです。だが、謙信は信長との約束を破り、越中に出陣してしまいます。

 謙信は武田と同盟を結ぶ決意を固めていたから、信濃に出兵しなかったのです。同盟の成果が早くも現れたと言えましょう(当然、信長と謙信の関係は冷え込むことになります)。明けて天正4年(1576)9月には勝頼は中国地方の大名・毛利輝元と同盟を締結。更には、小田原の北条氏政との同盟強化にも成功します(氏政の妹・桂林院殿が勝頼に正室として嫁ぐことが決まる)。勝頼にとって、これら同盟は、信長に対抗するために必要なものだったでしょう(信長包囲網の形成)。

 天正6年(1578)3月、越後の上杉謙信は病死しますが、家督をめぐって、謙信の甥・上杉景勝と、養子の上杉景虎(北条氏政の弟)との間で争いが起こります(御館の乱)。勝頼は両者の和睦の仲介をしています(勝頼は北条氏から景虎支援を要請されていました)。上杉景勝と和睦し、景勝・景虎の和平を仲介した勝頼。和平は破綻することになりますが、勝頼は撤兵し、景虎を支援することはありませんでした(天正7年=1579年、景虎滅亡)。


北条との同盟が崩れる

 北条氏政は勝頼に不信感を抱き、最終的に武田と北条の同盟は崩れます。北条氏は武田の宿敵・徳川家康と手を結び、武田に攻撃を仕掛けてくるようになるのです(北条氏は信長とも同盟を結ぶ)。「勝頼包囲網」が形成されてしまったと言えましょう。

 勝頼は同盟を結んでいた常陸の佐竹義重を通じて、信長との同盟を模索しますが、信長は取り合いませんでした。大坂本願寺降伏(1580年)、徳川方による遠江・高天神城の攻撃が進展するなか、信長は勝頼と同盟する価値なしと判断していたのです。そして、天正9年(1581)3月、高天神城はついに落城します。勝頼は落城寸前の高天神城救援に駆け付けることはありませんでした。

 駿河・伊豆における北条氏との抗争の激化、そして、信長と和睦したいという勝頼の想いがあり、救援に向かわなかったと推測されます(信長との和睦が成立すれば、家康とも和睦できる。そうすれば、高天神城を救うことができると考えていたか)。信長は、勝頼が高天神城を見捨てれば、信頼を失い、求心力は低下すると踏んでいました。そして、1・2年のうちに武田領国に攻め込む心算でした。もし、勝頼が援軍に駆け付けてきたら、これを撃滅し、領国を併呑する積もりだったのです。

 信長の予想は的中しました。明けて、天正10年(1582)1月には、勝頼の妹婿で信濃国の有力国衆・木曾義昌が織田方に内通します。これを好機と見た信長は、家康とともに、武田領国に侵攻。武田一族の穴山梅雪も武田を裏切ります。武田方の諸城は次々と降伏、もしくは攻略されていきます。

 進退極まった勝頼は、小山田信茂を頼り、再起を図りますが、小山田も離反。ついに、田野(甲州市)に追い詰められて、一族とともに、勝頼は自害して果てるのです(3月11日)。

 武田家の滅亡は何れは避けられなかったことかもしれません。しかし、勝頼が無理をしてでも、高天神城の後詰に駆け付けていれば、雪崩のように急激な滅亡は避けられた可能性はあります。

「予期せぬ展開がリーダーの信頼感を失わせるきっかけになる」とマルクス・C・ハセル博士は述べていますが(トラヴィス・オールーク「困難なときこそ試されるリーダーの信頼力」『HAYS』)、それが、勝頼にとっては、高天神城に救援に向かわなかったことから来る信頼低下でした。

(主要参考文献一覧)
・柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書、2006)
・笹本正治『武田信玄』(中公新書、2014)
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021)

筆者:濱田 浩一郎

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