源頼朝、ずば抜けた運の良さを持っていた「征夷大将軍」から学ぶこと

2024年3月14日(木)5時55分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


なぜ頼朝は、生き延びることができたのか?

 源頼朝(1147〜1199)。言わずと知れた鎌倉幕府の初代将軍です。しかし、頼朝は、異母弟の源義経はじめ同族、他武将を次々と死に追いやったとして、冷酷な人物として、ドラマ等で描かれがちです。とは言え、頼朝は「冷酷」という言葉だけで、片づけられるような人物ではありません。では、どのような人物で、どのようにして、幕府を創っていったのでしょうか。そこから、我々が学べることはどういったことがあるのでしょうか。

 頼朝の父は、河内源氏の武将・源義朝。母は熱田大宮司・藤原季範の娘でした。頼朝の生命の危機は、少年時代に早くもやって来ます。平治元年(1159)、平治の乱が勃発。藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒するため、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵したのです。12歳の頼朝も、父・義朝に従い、参戦。これが、頼朝の初陣となります。

 しかし、戦は信頼・義朝側の敗北に終わります。義朝は尾張国で、長田忠致により殺されてしまいます。頼朝は敗走中、近江国で義朝一行とはぐれ、その後、捕縛。都に連行されることになるのです。

 余談となりますが、私は頼朝は「幸運の人」、つまり、幸運に恵まれた人だったと思っています。そして、その幸運の第1が、近江で父らとはぐれた事だと思うのです(はぐれた事自体は偶然の要素が強いでしょう)。もし、頼朝が父らとはぐれずに尾張の長田忠致のもとに行っていたら・・・おそらく頼朝は父と同じ運命を辿っていたでしょう。

 捕らわれ、京都に送られた頼朝。頼朝は義朝の3男ですが、嫡男として待遇されていましたし、何より、戦に参加していました。保元の乱(1156年)においては、戦に敗れた義朝の年少の弟たちは斬首となっています。その事を考えたら、頼朝も処刑されてもおかしくはありませんでした。ところが、この時もまた頼朝は死を免れたのです。その理由としては、勝者・平清盛の継母(池禅尼)の嘆願があったからと考えられています。

 ちなみに、頼朝は、池禅尼の子・平頼盛の家人である平宗清によって捕えられていました。池禅尼は、平忠盛(清盛の父)の正室でしたし、夫亡き後は、後家として、一定の発言力を有していたと考えられます。更には、禅尼の子・頼盛が頼朝を捕らえたということも、禅尼が頼朝の処分に口出しできる根拠になったと思われます。

 では、なぜ池禅尼は、頼朝の助命を継子・清盛に願ったのか。一説には、禅尼の亡くなった我が子(家盛)に、頼朝が似ていたからだと言われています。もし、本当にそうだったとしたら、それは偶然のことですが、他の見解もあります。

 頼朝は、平治の乱以前、年少ながら、上西門院(鳥羽天皇の皇女。兄は崇徳上皇。弟は後白河院)に蔵人として仕えていました。そして、池禅尼は、上西門院の兄・崇徳上皇の皇子(重仁親王)に乳母として仕えていたのです。禅尼はそのような立場にありましたが、保元の乱(皇室では、崇徳上皇と後白河天皇が、摂関家では藤原頼長と忠通とが対立したことにより勃発)において、崇徳上皇方の敗北を予測、息子・頼盛に清盛に加勢するよう命じたのでした(『愚管抄』)。

 果たして、禅尼の予測は的中しました。そういった経緯がありましたので、池禅尼は崇徳上皇方を裏切ってしまったという想いを心のどこかに残していたと思われます。そんな時に、上西門院から、頼朝の命を助けよとのお言葉が、池禅尼にあったのではないか。禅尼は崇徳上皇方に負い目を持っていましたので、上西門院の要請に応じたと考えることもできるでしょう。

 こうして、頼朝は死刑を免れ、遠方の伊豆国に流罪となります。この事もまた、頼朝の運の良さというものを表しているでしょう。


「君は運が良いか?」

 さて、経営の神様と言われた松下幸之助氏(1894〜1989)は、社員の採用試験の面接の最後に、ある事を問いかけたと言います。松下氏は「君は運が良いか?」と社員候補の人に質問したのです。

 運の良さというものを松下氏は、非常に重視していましたが、その一方で「わしは、運命が100パーセントと言ってはおらん。決してそうではないのであって、90パーセントやと。ということは残りの10パーセントが人間にとっては大切だということになる」(江口克彦「松下幸之助「成功するかどうかは90%が運」『東洋経済オンライン』2017・2・3)との言葉も残しています。

 これは、人間の人生は運が支配するところが大きいが、だからこそ「懸命に努力はせんといかん。そこに、それぞれが成功する道も開けてくる」(前掲)と言うことです。

 頼朝の人生は、少年時代から「幸運」に恵まれてきた。が「幸運」に頼ってばかりで、努力しない人生だった訳ではありません。伊豆に流罪となってからの頼朝は、長い雌伏の時を過ごします。頼朝が、平家方に対し挙兵するのは、流罪になってから20年後の治承4年(1180)のことでした。挙兵ー生命の危機に晒されるリスクを頼朝は負った訳ですが、では彼はどのようにして、その挙兵を成功へと導いたのでしょうか。

筆者:濱田 浩一郎

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