眞子さまと小室さんはそもそも「婚約」なんてしていなかった! “第三の男”出現の可能性、150年前の皇室事例から判明!

3月15日(木)7時30分 tocana

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眞子さまと小室さん、今後どうなる?

 2月、2020年に迫った東京オリンピックなどの国家的イベントに水を差すことを避けるかのように、かなり強引なタイミングで「結婚の延期」が発表された秋篠宮眞子さまと小室圭氏。その裏事情については週刊誌などが臆測も交えつつ面白おかしく書き立てているが、小室家の借金問題をはじめ、父君と祖父君が自殺されていること、また小室氏自身の職業・年収・転職歴など、さまざまな角度から話題になるトピックが多いことは確かである。そもそも「開かれた皇室」という今上陛下の思し召しのもとでは、それらを隠し立てすること自体いかがなものかというような意見もあるだろう。

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 皇族のご結婚に際して、そのお相手に対する取材攻勢はこれまでも凄まじいものがあった。記憶に新しいところでは、高円宮典子さま(現・千家典子さん)と千家国麿氏、そして紀宮清子内親王(現・黒田清子さん)と黒田慶樹氏のご結婚など。もちろん、その時にもかなりのネガティブなネタはあったと漏れ伝わるが、基本的に表に出ることはなかった。しかし今回は、小室さんにまつわる前述のような情報が次々と週刊誌に報じられている状況だ。2人は今後どうなってしまうのか? 今回の「結婚の延期」がどのような結末を迎えることになるか、過去の歴史を紐解きながら考えてみよう。


■幕末にもソックリな状況の2人がいた!

——時は幕末、ペリー来航の直前のこと。孝明天皇に呼ばれた有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう、当時17歳)は、皇女和宮(当時5歳)との婚姻の話を持ち掛けられる。突然のことだった。基本的には、天皇からの提案を親王が断るなどあるはずもない。ところが、熾仁親王は「まだ5歳の和宮の婚姻を決めるのはあまりにも早すぎる」と考え、2人はあくまでも天皇が許可を与えた“カップル”となることを選んだのである。その後、この2人は京の都でも評判の仲の良いカップルになったという。

 日本において、古来より“理想の妻”像は『源氏物語』の紫上(むらさきのうえ)、もしくは『伊勢物語』の第23段「筒井筒(つついづつ)」に記されていると考えられてきた。「筒井筒」には、幼馴染の男女がほぼ同じ環境で育ち、互いに何も話さなくてもお互いの心がわかる夫婦になるが描かれている。一方の紫上は、幼い頃に光源氏に引き取られ(拉致されたという方が適切だが)、そのまま自分好みの女性に育てられた揚げ句、妻にされてしまう。そして、江戸時代まではそれが“理想の妻”ということになっていた。いずれにしても、紫上にしろ「筒井筒」にしろ“あれこれ言わなくても自分のことを察してくれる”関係が男女双方にとって居心地が良いということになっていたのだ。つまり、熾仁親王と皇女和宮は、そのような関係を体現していたのだ。


■悲しい恋の結末

 しかしその後、このカップルの関係は時代の荒波に揉まれることになる。ペリー来航、日米修好通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、安政の大獄——と日本は大きく動いていく。そして「桜田門外の変」(1860年3月24日)によって大老・井伊直弼という支柱を失った幕府は「公武合体」を打ち出すとともに、まだ独身で若かった十四代将軍・徳川家茂に皇女和宮の降嫁(皇女が皇族以外の男性に嫁ぐこと)を願い出たのである。

 これに対し当初、時の関白・近衛忠煕は「和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約している」こと、「その婚約には天皇の勅許があるため、降嫁は受けられない」と主張したが、幕府のゴリ押しもあって最終的に和宮の降嫁が決まる。実態は天皇が公武合体派の岩倉具視などの意見を受け入れ、同時に「攘夷実行」を幕府に約束させるためでもあったが、理屈としては「熾仁親王と和宮の婚約が正式なものではなかった(納采の儀を執り行っていない)」、そして「和宮が天皇の御意思に従う」とされた。


■「納采の儀」、行っていなければ“お付き合いの表明”しただけ

 さて、この決定を受けて有栖川宮熾仁親王には正式に“婚約破棄”の話が伝えられたのであろうか? いや、まったく伝えられていない。その必要はなかったからだ。そもそも皇室において、婚約に先立つ「婚約内定」とは非公式なものであり、当時から「婚約内定の破棄(または延期)」に関しては、正式な勅許などは必要ないとされていたからだ。従って「婚約内定を取り消す」ための勅許は、この時も、それ以前にも、一度たりとも出たことがないのだ。

 もしも「納采の儀」という神事を行っている場合は、それを取り消さなければならないが、それまでの「婚約内定」とは、ずばり“プライベートで付き合っていることを認めるだけ”のことであり、天皇はその2人の別れにまで介入する存在ではないのだ。そのため、有栖川熾仁親王はお付き合いしている状態のまま、皇女和宮を江戸幕府に取られてしまったことになり、これが明治時代になって“悲恋物語”として有名になったのである。


■江戸を焼け野原から救ったのは2人の秘めた恋(?)だった?

 その後、皇女和宮はというと、夫である将軍・家茂が長州征伐の陣頭指揮のために在城していた大阪城で脚気(かっけ)を発症し、急死。結婚生活わずか5年(家茂は頻繁に上洛していたため、実質3年ほど)で未亡人となってしまう。一方の有栖川熾仁親王は、和宮の実母・勧業院(橋本経子)や、その兄で和宮の育ての親でもある公卿・橋本実麗(さねあきら)とともに、やがて倒幕勢力の中心となっていく。この橋本家は、「鳥羽・伏見の戦い」における大津方面(東部方面)の総司令官として活躍。また熾仁親王は、江戸城を討伐するための東征大総督として、錦の御旗を押し立てて江戸城に迫るのである。しかし、ここでもう一つドラマが待っていた。

 実は、江戸城総攻撃が計画されていた時、明治新政府軍(東征大総督府)に和宮から手紙が届く。それによって攻撃開始までにわずかな猶予が生まれ、その間に有栖川宮熾仁親王の“下参謀”である西郷隆盛が、幕府側の代表である勝海舟と交渉し、慶応4年(明治元年)3月に江戸城無血開城が決まるのだ。当時、江戸の町が戦火にまみれなかったのは、皇女和宮と有栖川宮熾仁親王の“昔の恋”の力も大きかったのだ。ちなみに、この史実に関しては、過去のNHK大河ドラマなどでも大きく扱われている。

 さて、話を現代に戻そう。これと似たような状況で「納采の儀」の前に「婚約内定のお許し」があった状態での、秋篠宮眞子さまと小室圭氏の婚約延期である。実際にそのような状況下で、眞子さまに「家茂のようなお相手」が現れてしまっても、小室圭氏には何ら関係がない。有栖川宮熾仁親王と皇女和宮の事例を見ればわかるように、政治的事情や社会的環境によって婚約内定が破棄されることも十分“あり得る”。とりわけ、結婚相手本人やその家族に問題があるような場合、しかも、そのことが世間に広がり、なおかつ政治的事情、社会的環境が整わない状況では、どのようになるかはまったくわからないのが実情だ。いずれにしても、ご本人たちと周囲が納得する形で、お幸せになってもらいたいものである。
(文=聖橋乱丸)


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