昔の少年犯罪は今よりも残酷? 戦前の恐るべき事件をノンフィクションライターが紹介

3月16日(月)13時0分 tocana

 少年や少女による、痛ましい事件が続いている。同様の事件の再発を防止するためには、日頃から大人はどのように少年たちに向き合っていくべきか、真剣に問われなければならないだろう。

 一方で「少年法をさらに厳罰化せよ」という声も上がっている。かつてはしつけも厳しく、未成年による犯罪は少なかった。今は子どもたちは甘やかされて育ち、ゲームやスマホで人間性を失い、ちまたに溢れる様々な刺激で道徳心を失っている。そんな思いから、そのような主張が生まれているのだろうか。それなら、教育勅語で育てられていた戦前の子どもは、犯罪を犯さなかったのか? そんな疑問に答えたのが、少年犯罪データベース主宰の管賀江留郎著『戦前の少年犯罪』(築地書館)だ。昭和4年の岡山では、おやつの餅を食べられたことに腹を立て、9歳の男子が6歳の男子を猟銃で射殺するなど、現代では考えられないような事件が起きている。少年による殺人は、今よりもずっと多かったのだ。

 同書を参照しつつ、戦前の恐るべき未成年の犯罪の3例を紹介しよう。


■CASE1/15歳、58カ所をめった切り

 昭和12年6月14日、満15歳の少年が20歳の主婦を刺し殺したのは、東京市中野区の民家だった。少年は石川県金沢市の袈裟衣商の長男。商店で万引きしたり同級生の持ち物を盗んだりしたため、金沢第2中学を中退して家にいた。事件の前日に、少年は家出して上京、叔父の家を訪ねた。叔父は仕事で留守。叔母とその妹である20歳の若妻がいた。少年は書斎の本を読むなどして過ごす。

 叔母が出かけてしまうと、四つん這いになって新聞を読んでいる若妻の尻が、少年には気になり出す。

「カマボコかコンニャクのようにくにゃっとしたもののように見えたので」少年は衝動的に持っていたナイフで、その尻を刺した。この時代、少年がナイフを持っているのは当たり前のことだった。逃げ惑う若妻を追いかけ回して、少年は58カ所をめった切りして死に至らしめたのだ。

 若妻は海軍少将の令嬢。金沢第一高女時代には、バレーボール選手として活躍している。美人だったが、少年が恋愛感情を持っていたわけではなかった。

 動機を説明しきれない少年にいらだって、検事は文章に書いてみるように命じた。少年は次のように書いている。

「また死というものに対しての概念、死んだら一体どんなところへ行くのか、Aというものが死ぬとAというものはもう全然ほかのものとなって現れないのか。またBとかCとかいうようなものになって生まれ変わるのか、死に直面した場合の人間の心理状態はどんなものか、生と死の堺はどの辺か、地獄とか極楽とかいうものは本当にあるかというようなずっと以前から好奇心をもって考えてきたことが急に蘇ったようでした」

 まるで「人を殺してみたかった」というような、殺人そのものを目的とする殺人だと感じさせる。

 精神鑑定の結果、少年は不起訴となり、松沢病院に7カ月入院した。満18歳になった少年は上京して大学受験にための勉強をしていたが、同じアパートに住む27歳の女性と心中を図る。女性は軽症で助かったが、少年は死亡した。


■CASE2/カナヅチを振り回す、悪の貴公子

 戦前に最も騒がれた事件として、東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科生、20歳の谷口富士朗が起こした殺人がある。

 昭和3年6月12日、富士朗は18歳の弟を伴って、東京市世田谷区の民家に押し入った。そして、66歳の資産家女性を彫刻用カナヅチで殴り、電線で絞殺する。2円30銭入りの財布と懐中時計などを奪って逃走した。

 11月11日、富士朗は共犯者である弟を、彫刻用カナヅチで殴り殺す。17歳の三男に手伝わせて、死体を埋める。富士朗は三男も殺そうとしたが失敗。そこで、精神異常者にしたてあげ三男を松沢病院に入院させてしまう。

 昭和5年、中耳炎で死期が近づいた三男が事件を告白して、迷宮入りかと思われた事件が解明する。5月27日、富士朗は逮捕される。恋人と一緒にアメリカに彫刻留学に出かける3日前だった。

 富士朗の父親は、札幌医師会副会長を務める、医学博士。資産家で、富士朗は十分すぎる仕送りを受けていた。逮捕の時は、留学記念に札幌の自宅で派手な展覧会を開いている最中だった。富士朗は美少年。金持ちの芸術家でプレイボーイの殺人犯は、当時のマスコミでもてはやされた。

「僕は刹那主義者である。瞬間の芸術的要求こそ自分の身命を賭して悔いないものである。だから恋愛においても自分は一瞬を尊び、一瞬の自己の芸術的感情によって自己の一生を左右する問題をも解決する。血の奔騰! その一瞬こそ耐えがたい魅惑がある」

 そんなことを、富士朗は取り調べでまくし立てた。

「俺はシューパーマンである。芸術の天才である」

 法廷では、そんなことを叫んだ。「シューパーマン」とは、ニーチェの「ツァラトストラ」で書かれている「超人」を念頭に置いていたようだ。一時期、富士朗も精神異常とされ松沢病院に入院となっが、昭和10年12月5日、。大審院(現在の最高裁)で無期懲役の刑が確定した。


■CASE3/少女たちの性

 殺人に比べると軽い罪だが、次の事件も、私たちの思い込みを覆してくれる。

 昭和16年5月、14歳〜18歳までの女学生7人、18歳の女学校卒業生、17歳の喫茶店ウエイトレスの9人が補導・逮捕された。

 当時の新聞に書かれた言葉は、「不埒な交際」。彼女たちは、慶応大学、明治大学、日本大学らの学生や、中学生、会社員らとセックスしていたのだ。60歳の帽子店経営者や58歳の土地ブローカーからは小遣いをもらっていた。戦前は、遊郭などの認められた場所以外での売春は禁止されていたので、それに違反したと見なされたのだ。

 リーダー格の18歳の女学生は、13歳の時に帽子屋を訪れて店主と知り合い、1〜2円の小遣いをもらって身を任せていた。彼女の父親は北海道の村長。母親は教育熱心で、子ども5人を学校に入れるために上京していた。本人は優秀で、有名私立女学校を卒業して、名門女子専門学校(現在は女子大)に進学していた。

 最年少の女学生も、このリーダーに誘われて、帽子屋の店主とセックスしている。補導されたのが中学入学から2カ月の頃だから、小学生の頃からしていたのかもしれない。

 ちなみに、「援助交際」という言葉が生まれたのは、平成に入ってからである。「団地妻売春」「ルンルン売春」という言葉が出たのは、昭和45年以降。それまでは、「性を売る玄人」と、「性を売らない素人」とに分かれていたとよく言われる。だが、昭和初期にすでに、女学生らが自ら進んで性を売っていたのだ。

 援助交際が騒がれた頃、良家の子女、優等生もがそれを行っていることが驚かれたが、同じ事はすでに起きていたのである。
(文=深笛義也/ノンフィクションライター)

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