『べらぼう』富本節の人気太夫・富本午之助ってどんな人?美声で人気を博した二代目、蔦重とのつながり、衰退の理由
2025年3月17日(月)6時0分 JBpress
(鷹橋忍:ライター)
今回は、大河ドラマ第11回『富本、仁義の馬面』に登場した、寛一郎が演じる富本節の人気太夫・富本豊志太夫(富本午之助/第12回より富本豊前太夫/ここでは富本午之助で統一)を取り上げたい。
富本節とは
富本午之助は、宝暦4年(1754年)に生まれた。
寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎より、4歳年下となる。
父は、富本節の初代・富本豊前掾(とみもとぶぜんのじょう)だ。
富本節とは、三味線の伴奏による語り物(
午之助の父・富本豊前掾は、本名は福田弾司、
富本豊前掾は、豊後節の始祖・宮古路豊後掾(
豊後節が禁止された後に、同門の文字太夫が延享4年(1747)
しかし、富本豊前掾は寛延元年(1748)に常磐津節から分派し、富本節を樹立。当初は富本豊志太夫を名乗っていたが、翌年に受領し、富本豊前掾を称した(服部竜太郎『日本音楽史 伝統音楽の系譜』)。
富本節は重々しくなく、詞章も難解ではなく、節回しは艶があり、曲調も華やかであったという(武田製版所八十周年記念史編纂委員会編『武田製版所八十周年記念史』所収「添章 富久田家(富本)の系譜」)。
宝暦10年(1760)には、再び受領して筑前掾となり、名声が高まるも、一般には「富本豊前掾」として知られている。
富本豊前掾は、明和元年(1764)10月22日、49歳で没した。
豊前掾は「豊前太夫」を名乗った記録はないが、彼の実子・富本午之助が「二代目・豊前太夫」と称したため、「初代・豊前太夫」に数えられることが多い。
美声で人気を博した二代目・富本豊前太夫
幼くして父を失った富本午之助は、亡父の高弟であった富本斎宮太夫(初代)らの指導・後見を受け、修行に励み、明和3年(1766)、数えで13歳の時、亡父の三回忌追善として初舞台を踏んだ。
面長のため、「馬づら豊前」の異名で親しまれた午之助は、天性の美声の持ち主のうえに節回しも巧みだった。
特に、富本の代表曲『其俤浅間(そのおもかげあさまがだけ)』(
安永(1772〜1781)の中頃には、人気が急上昇していき、常磐津節を凌駕した。富本節は午之助のもと、全盛時代を迎えることになる。
安永6年(1777)には、豊前太夫を襲名した。
この年、蔦重は、富本節の正本(音曲の詞章を記した本)と稽古本(節付けがなされた稽古用の本)を出版できる「株」を取得したという(安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』)。
蔦重、28歳。午之助、24歳の時のことである。
二人がどのような経緯で結びついたのかは、わかっていない。もしかしたら、ドラマで描かれたようなことがあったのかも知れない。
いずれにせよ、蔦重は富本節の正本や稽古本の発行を手がけた。
富本節の人気の高まりとともに、それらの本の需要も高まり、大量の部数が売れたと考えられている(鈴木俊幸『本の江戸文化講義 蔦屋重三郎と本屋の時代』)。
富本節の衰退
富本午之助は文化14年(1817)に受領し、亡父と同じく豊前掾と称したが、文政5年(1822)7月17日、69歳で没した。
午之助と、彼の妻「いく」(歌舞伎俳優の三代目・
そのため、日本橋人形町の鬘屋(かづらや)善八の子で、
文政11年(1828)に、三代・富本豊前太夫を襲名するも、富本節は衰退の道を歩んでいく。
文化・文政期(1804〜1829)に入ると、富本午之助が活躍した天明・寛政期(1781〜1800)とは江戸の人々の好みが、濃艶から清楚へ、幽婉から洒脱へと一変した(開国百年記念文化事業会編『明治文化史』9巻)が、時代の変化にあった優れた新作を、生み出すことができなかった(武田製版所八十周年記念史編纂委員会編『武田製版所八十周年記念史』所収「添章 富久田家(富本)の系譜」)、富本節から分かれた清元節の台頭などが、その理由に挙げられている。
筆者:鷹橋 忍