屈辱の涙に濡れた戦国時代のお兄ちゃんたち

3月18日(月)6時12分 JBpress

(花園 祐:ジャーナリスト)

「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ!!」

 言わずと知れた漫画『北斗の拳』に登場する北斗四兄弟の三男が世紀末に残した名言の1つです。しかし、この発言をした当人が四男に返り討ちにされるなど、弟が兄を立場や実力で逆転してしまう例は古今東西よくみられます。

 日本の戦国時代においても同様です。江戸時代と比べて長子相続が徹底されていなかったこともあり、存命中の兄を差し置いて弟が家督を継いだ例がいくつか存在します。

 そこで今回は、戦国時代から江戸時代初期にかけて家督を継げなかった有名な大名家の長兄と、その継承の顛末についてご紹介しましょう。


養子ロンダリングされた結城秀康

 戦国時代において、存命中の兄を差し置いて家督を継いだ最も代表的な人物といえば、徳川家2代目将軍の徳川秀忠(1579〜1632年)の名が挙がるでしょう。

 秀忠は徳川家の三男でありながら、存命中の次男・秀康を差し置いて1605年に徳川家の家督を継承しています(長男の信康はすでに亡くなっていました)。

 なぜ年長の秀康を差し置いて、秀忠が家督を継ぐこととなったのか。2人の父である家康が秀忠の政治センスを見出したとも言われますが、単純に母親の家格が影響したというのが通説です。

 名家出身だった秀忠の母に対し、秀康の母は地位の低い家の出身でした。そのため、秀康は誕生後もしばらくは家康との対面が許されなかったなど、出生時点から後継者とは目されていなかった節があります。

 なお秀康は、小牧・長久手の戦いを経て徳川家康と豊臣秀吉の間で和睦が成ると、秀吉への人質として養子に差し出されています。しかし、養子先である豊臣家でも秀吉の実子・鶴松が生まれると、厄介払いとばかりに今度は結城家へ婿養子に出されるという養子ロンダリングに遭っています。

 結城家での「結城秀康」という名称が現在の秀康の通り名として定着していますが、関ケ原の合戦(1600年)後には越前(現福井県)に封ぜられ、松平姓に復帰しました。そのため秀康が生前使用した苗字は「羽柴」「結城」「松平」と3つもあります。家督を継げなかったこと以前に、振り回されてばっかりの流浪の人生に同情を禁じ得ません。


弟の誕生によって後継者から外される

 東北の雄・伊達政宗の長男である伊達秀宗(1591〜1658年)も、前述の秀康と似たような経緯で家督を継ぐことができませんでした。

 政宗の正室・愛姫は結婚後、女児こそすぐ産んだものの、男児がなかなか産まれませんでした。そのため、政宗の側室から長男として生まれた秀宗が当初、伊達家の後継者として扱われていたようです。しかし、愛姫に待望の男児、次男・忠宗が生まれたことで秀宗の運命は一転、あっさり後継者の路線から外されてしまいます。

 もっとも、父親である政宗は、秀宗の処遇を気にしていたようです。大坂の陣の後に徳川家から宇和島10万石を拝領するとそのまま秀宗に譲り、別家を立てることで秀宗の大名としての地位を確保しました。こうして秀宗は2代目仙台藩主とはなれませんでしたが、伊予宇和島藩(現愛媛県)の初代藩主となりました。


父親に思いのたけをぶちまけた秀宗

 ところが話はこれだけで終わりません。秀宗の宇和島へのお国入りの際、政宗は自分の重臣数名を与力(陪臣)として付けたのですが、その与力同士が派閥を作って対立するようになります。最終的には、秀宗に肩入れされた与力が秀宗の指示で相手方を襲撃し、一族もろとも殺害するという内乱にまで発展します(和霊騒動)。

 秀宗は当初、この事件を政宗にも幕府にも報告していませんでしたが、事件を知った政宗は激怒し、また仙台藩への影響波及を恐れてか自ら幕府へ報告し、秀宗を勘当した上で宇和島藩の改易(解体・取り潰し)を申し出ます。しかし当時の幕閣首脳であった土井利勝は事を荒立てず、秀宗側の和解工作もあってか両者を必死にとりなして、政宗に改易願いを取り下げさせて事を収めました。

 一連の騒動の後、政宗・秀宗親子は対面を行いました。その席で秀宗は「子供の頃には豊臣家に人質に出され、長男なのに家督も継がせてもらえず、今までずっと恨んでいた」と、父・政宗への思いのたけをぶちまけたそうです。これにはさすがの独眼竜もほろりと来て、秀宗への勘当を解いて仲直りしたそうです。

 ただ秀宗は父親とは仲直りはしたものの、仙台藩(現宮城県)を継いだ弟・忠宗に対しては複雑な感情を持ち続けたようです。江戸城の控室などで秀宗と忠宗が同席すると秀宗はいつも、宇和島藩の方が仙台藩に対し石高で劣っているにもかかわらず、「俺がお兄ちゃんだから」と言って、忠宗より上座の席につこうとしたというエピソードが残されています。


妻を庇って廃嫡に

 以上で見た通り、結城秀康、伊達秀宗は母親の出身が影響して家督を継げませんでした。それに対して、「正室の長男」という申し分のない立場でありながら家督を継げなかった人物がいます。肥後熊本藩の藩祖である細川忠興(ただおき)の長男・細川忠隆(ただたか、1580〜1646年)です。

 忠隆は、細川忠興と、その正室であり明智光秀の娘であったガラシャ(玉子)の間に生まれました。忠隆は若い頃から文武に優れ、自他ともに細川家の後継者として目されていました。

 しかし、ある出来事をきっかけに父親・忠興と息子・忠隆の関係が破綻します。それは、忠興が忠隆に離婚を要求したことです。

 関ヶ原の合戦の際、忠興の妻・ガラシャは西軍の人質となることを拒否して自害しました。それに対して、前田家出身で忠隆の妻だった千世(春香院)は大阪屋敷を脱出しました。それを忠興は良しとせず、千世との離婚を要求したのです。

 父からの離婚要求に対し、忠隆は妻・千世をかばって敢然と拒否します。その結果、忠隆は忠興によって1604年に勘当、廃嫡されることとなりました。

 ちなみに忠興は本能寺の変の後もガラシャとの婚姻関係を維持し、ガラシャが自害したと聞いた時は大いに嘆き悲しみ、西軍に降伏した父親の藤孝に対してすらも逆恨みしたといいます。忠興とガラシャは若干サイコパス気味な性格同士なだけに、夫婦仲は相当良かったようです。


文化人として名を馳せた忠隆

 話を戻すと、細川家では忠隆を勘当した後、江戸へ人質に出され徳川秀忠の知己を得ていた三男・忠利(ただとし)を後継者として定めます。この処置に納得しなかったのが間に挟まれた次男・興秋(おきあき)です。よっぽど不満だったのか、細川家を出奔してしまいます。なお、のちに興秋は大阪の陣で西軍に与し、戦後は父・忠興によって切腹に処せられています。

 一方、忠興に勘当された忠隆は、祖父・藤孝の庇護を受けながら京都に滞在しました。藤孝の死後も細川家から援助を受けながら京都での生活を続け、公家衆とのサロンの中で文化人として名を馳せるようになります。

 そして勘当から実に20年超も経過した1626年、感情も和らいだのか、忠興は京都の忠隆の下を訪れると勘当を解き、親子は感動の和解を果たします。

 また忠興は1642年に忠隆を所領である熊本に招くと、やはりその処遇を気にしていたのか、数万石の領地を与えるので熊本で暮らさないかと提案します。しかし忠隆はこれを拒否すると、そのまま京都へ帰り、4年後の1646年、父・忠興の死からわずか8カ月後に京都で没しました。

 後継者として将来を嘱望されながら政治の大きなうねりによって廃嫡された忠隆でしたが、風雅で鳴らす細川家の長男らしく、その後、文化人として大成しており、彼にとっては結果的に悪い人生ではなかったのかもしれません。

 なお、今回取り上げた徳川、伊達、細川家で兄を差し置いて家督を継いだ2代目たちはいずれも「守成の名君」として高い評価を受けています。そういう意味では、彼らを後継者に選んだ初代の目はあながち間違っていなかったのかもしれません。

筆者:花園 祐

JBpress

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